とりあえず日々の出来事(日記)や思いつくままの事などを書いてまいります。

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2017年

7月

19日

ギタリストベスト100

『ギターマガジン』見ながらYoutubeで聴いております
『ギターマガジン』見ながらYoutubeで聴いております

 『ギターマガジン』という雑誌があって、最新号に「ニッポンの偉大なギタリスト100」という特集があることをネットで知り、少し気になっておりました。本日、たまたま市内の本屋に立ち寄った際に、それが置いてあり、どうしようか迷った挙句、買ってしまいました(貧乏生活に突入しているのにアカンアカンと思いつつ・・・・)。1位から100位までのランキングには、一般読者ではなく、300人近いプロのギタリストや音楽関係者が投票した結果だそうで、ファンなどによる偏った得票なども無いようでした。まさにホンモノの実力・クロウト受けする人気のギタリストということになるのでしょう。

 

ギターを少したしなむ私として(は、おこがましすぎるので)というより、レコード・CDコレクターとして、いろんなミュージシャン、特にギタリストのランキングが所有アルバムなどとの関係で気になるところです(ややこじつけですな)。そのすべてのランキング詳細については、こんなところで公開してしまうと、雑誌が売れなくなるでしょうから、気になった、お一人だけ書かせていただきます。

 

それは、16位に入っている大村憲司さん(1998年急逝)です(これくらいバラしてもいいでしょ)。大村さんは、神戸出身で、私より6つほど上の世代の方だったのですが、ギタリストとしての経歴・テクニック・人柄等々、すごい方なのです。私は、かっこいいギタリストとして以前から知っておりましたし、数回、直接見て、聴いたことがあります(その時に知っていたかは別ですけれど)。

 

その最初は、私が高校生の頃でした。地元にあった亀岡会館というコンサートホールにフォークグループの赤い鳥が来る、ということで、高校の先輩からチケットを買わされて行ったステージです(たぶん1972年ころ)。当時、赤い鳥といえば、「竹田の子守唄」や「翼をください」などを混声コーラスで歌うフォークグループというイメージでした。それなのに、その日、私が聴いたステージ上の赤い鳥は、とてもフォークソングというものではありませんでした。ドラムス、ギターなどのフルバンドを従えて、エネルギッシュに歌う、もはやロックグループでした。曲目など詳細は、まったく覚えていないのですが、そのイメージギャップだけは、はっきりと覚えています。そして今から思えば、ヤマハのライトミュージックコンテストで優勝して、海外でレコーディングし、バックバンドも付けて、ということになったのでしょう。そのバックバンドのギタリストに大村憲司さんがいたと思うのです(ちなみにドラムは村上ポンタさんだった)。ロック化した赤い鳥は、ほんの一時期だけだったようですが、ウィキペディアなどで確認すると、オリジナルメンバーの5人に加え、大村・村上というメンバーの加入もあったことが分かります。そんな偉大なミュージシャンが、亀岡に来ていたとはつゆ知らず、エーッ!、赤い鳥って激しいな、くらいしか思わなかったわけなんです。

 

2回目は、1977年、私、学生時代、三重県合歓の郷でオールナイトで行われた8・8ロックディでした。友人、後輩らと原付バイクで京都から鈴鹿峠を越えて約半日かけて行きました。その日の優勝メンバーはジェイムスコットンをカバーした花伸というバンドでした。8・8の通例として、アマチュアのコンテストの後は、プロのミュージシャンによるゲストライブ、セッションなどがあって、チャーリー&大村憲司グループという名前でディランの「見張り台の上から」サムクックの「ブリングイッツオンホームツーミー」を演奏していて、メチャメチャかっこ良かったことを覚えています。大村憲司さんの名前を知ったのは、この頃だったと思います。

 

3回目に見たのも8・8ロックのステージでした。これは1979年でしたので、ちょうど就職したての頃、私が住んでいる亀岡を通る国道372号線を西へ西へ行った西脇市にある滝野ローンステージでした。ここへは、現在郵便局員をしている友人と2人で軽トラック(もちろん冷房なし)で行きました。その時もコンテストが終わった後のセッションバンドが3組あって、その中でクンチョウセットというセッションバンドが組まれ、ブラックフィーリングあふれる堤さんが「ハイヒールスニーカー」などを歌っておりました。その時のギタリストとして大村憲司さんの名前があったのを知るのは、ずっと後のことになります。当時は、あのサウスツゥサウスのクンチョウや、というくらいの認識で、あとでレコード化された音源をよくよく聴いてみると、渋いギターソロ弾いていたのはクンチョウではなくて大村さんでした。

 

大村さんを直接見たのは、この3回ですが、衛星放送WOWOWでやっていた「ザ・レコーディング」という番組で、有名曲をアレンジしてセッションする固定メンバーに大村憲司さんがおられました。毎回、ドラムスの村上ポンタさんや、ベースの高水健司さんなどと一緒に渋いギター弾いておられました。さらに、もっとメジャーな仕事としては、YMOのワールドツアーのギタリストとして参加されたこと、スタジオミュージシャンとして参加したアルバム数知れず、という具合です。20年前に亡くられておりますが、そのギターワークは今も強く記憶に残るものです。『ギターマガジン』のギタリストベスト5位以内に入ってもよいのではと思います。

 

2017年

7月

03日

メリー・ホプキンの来日と1970万博

来日時のインタビュー(ファンクラブ雑誌より)
来日時のインタビュー(ファンクラブ雑誌より)

今から47年前のことになります。季節はちょうど今頃、3月から始まった日本万国博覧会、新聞・テレビでは連日多くの入場者があったことを報じていました。私は中学生でした。

 

万博は、大阪吹田千里丘陵で開催されておりましたが、今ならクルマで1時間もかけずに行くことが出来ますが、当時私はまだ中学生でしたので、クルマも運転出来ません、また交通機関などにも不慣れな田舎者、そこはずいぶん遠い場所と感じていました。が、万博が開催されているというので、町内会の日帰り旅行や中学校での社会見学等でもバスに乗って行くことができました。ただ、それぞれ団体旅行でしたので、いろいろ時間的な制約もあり、万博に行ってふんいきに触れた、といった程度の経験で、一人でそのイベントを自由に楽しむというものではありませんでした。

 

そんな中、ビートルズの申し子、メりー・ホプキンが来日するということを知りました。しかも万博でコンサートがあるいう話でした(万博ホール 1970.7.4.~7.)。洋楽にめざめていた頃です。ビートルズは、その時には解散していたか、解散のうわさあったころなのか判然としませんが、メンバーのポール・マッカートニーが特にプロデュースに力を入れていた、その彼女が、日本に来るんだ、こんなチャンスを逃すわけにはいかない、と思ったのでしょう。そのチケットをどのように入手したのか、当時学校外に中学生だけで行くのは禁止・・・・そんな状況の中で、同じクラスのH君と2人で、そのコンサートに行ったのです。しかもカセットテープレコーダーまでカバンに入れて。経緯や詳しい状況については、なにしろ半世紀近く前のことなので、おぼえていないのですが、コンサートの曲目に、ビートルズの「ウィズアリトルヘルプフロムマイフレンズ」を聴いたこと、彼女のヒット曲を数曲聴いたことなどを覚えています。二人の男性ギターデュオが前座で少し演奏して、そのまま彼女の伴奏をしていました。

 

学校に無断で中学生がバスと電車を乗り継ぎ外タレのコンサートに行った、いまならどうという事でもないのですが、当時の状況からみて、ずいぶんと冒険をしたものだと思います。

 

 

2017年

6月

30日

LPレコードふたたび

LPレコードがふたたびブームだとか。

3000枚程度は保存している身としては、とても嬉しいニュースです。新しいアーティストがLPを出す、ということよりも、保有しているレコードの再生機器環境が保たれていることに安堵しているのです。

 

ところで、レンタルレコード店が隆盛を極めた90年頃、検盤という言葉がありました。レコード盤にキズがないか、あるか、を見極める作業のことです。それをせずにレンタルして、プレーヤーで再生したところ、音飛び、擦り切れによる雑音などが生じることがあったからです。アナログレコードは、その盤に記録された音声振動が溝に刻印され、レコード針が、その刻印と接触することで、ふたたび音声に変換するという、エジソンの発明した原理そのものは変化していないメディアです。当然、聴けば聴くほど盤は摩耗・消耗していきます。何度もレンタルされたレコードは消耗の度合いも大きく、商品価値は次第に下がっていくのが常でした(その点、光学的な非接触型の読み取りによって音声を再生するコンパクトディスクの登場は画期的でした)。レコードの検盤は、レンタルショップの店員がすることが基本でしたが、レンタルするほうの我々も、検盤してから借りる、という作業をしていました。まして中古レコード店などでは、しっかりと検盤して、良質なアルバムを入手することは、収集家としては必須のことでありました。懐かしい話です。

 

 

2017年

6月

26日

ロックバンドにブルースを感じる事

先日、「シカゴブルースの父」と称されていたマディ・ウォーーターズの日本公演(1980年、於・大阪サンケイホール、私見に行きました、37年前!)のパンフレットが物置の中から出てきました。さっそくその事をフェイスブックに投稿し、その時に一緒に行った友人も、この記事に反応してくれ、懐かしい思い出を共有したわけです。そのパンフに一緒にはさみこんでいた当日の宣伝チラシ(この写真)の「ブルースこそ全てのポピュラーミュージックの原点である」というリード文に目が止まりました。

 

確かにローリングストーンズやプレスリーだって、ブルースに影響をうけて曲を作り、演奏し、歌っていたわけです。エリック・クラプトンにいたってはブルースの楽曲が大半にもかかわらずカテゴリーとしてはロックになっています。それほどロックはブルースを基調、ベースとして進化していったのだと言えるのです。表裏一体でしょうね。で、このリード文「ポピュラーミュージックの原点」というのは、宣伝文という趣旨からして、やや大げさな感はありますが、おおまかなところでブルースの影響を受けているポピュラー音楽は、かなり多いと思います。そのブルースの音楽的な特徴としてはスリーコード、リズム、アドリブ等々あることは、よく言われていますし、専門家の方ならば、もっと理論的な特徴も挙げることが出来ると思います。

 

ところでロックバンドと称される日本のバンドの中には、まったくブルースフィーリングを感じないバンドが多いなぁと思います(特に近年)。しかもヒットチャートを賑わす相当人気のあるバンドです(あえて名前は出しませんけれど)。一方で、ギター1本とかアコースティック編成で演奏している、いわゆるフォークやポップ系の演奏者の中にもブルースフィーリングをすごく感じるアーティストがいます。おそらく、ロック系も含め、そのアーティスト(または楽曲の作者)の音楽体験の中に、じわじわとブルースの影響があるんだろうなと想像します。しかしブルースフィーリングがあるか、ないか、という事が、良い、悪い、ということではありません。あくまでも、私的な嗜好の問題であります。それが無くても良い楽曲もありますし、心が安らぐような曲もあります。ただ、ロックバンド面して、どの曲もどの曲も、ふにゃふにゃした演奏しかしていないバンドは、個人的に聴く気がしないことも確かです(あくまでも私の考えです)。

 

 

 

2017年

6月

21日

GoogleMapに投稿中

 



あちこち行って写真撮るのが好きな私は、最近、Googleマップに、行った場所の写真をアップしてみようと思いつき、過去に行ったことのある地点に投稿しはじめました(投稿するためにはGoogleローカルガイドという手続きをしなければなりません、投稿回数等に応じてレベルが上がっていきます、ポケモンGoを自分だけでやっているのと同じでしょうか、ただし「集める」のではなく、その場所に画像を補充する、みたいな)。
また地元「ききょうの里」「谷性寺」「篠葉神社」などの写真も大量にアップしていて、ききょうの里の関係者から「最近遠方からクルマで見に来る人が多いんやけど?・・・」とか言われたりすると、ひょっとしたら私の投稿した写真を見て、やって来たんではないかと、一人ほくそ笑んでいるのです。

そして時々「あなたの投稿した写真の表示回数が~回をこえました」というメールがGoogleから来ます。昨夜、15万回という通知が来て、喜んで本日の朝を迎えました。

 

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「汽笛は泣いて」

矢野絢子

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