◆口丹波民俗誌◆

回想(あとがき)

 この冊子のもとになったものは、昭和54年に実施された「京都府緊急民俗分布調査」の調査票である。調査の概要については、まえがきで少し述べたが、そもそも調査員として依頼された理由は、出身大学において、少しなりとも民俗学に関わりを持っていた事と、調査対象地域が何か所かある亀岡市内に在住していた事によると思う。この分布調査の団長をされていた故・柴田実先生は、佛教大学で講座を持たれており、ちょうど私が卒業したその年に、この調査の丹波地域での調査員を探しておられたようであった。私の卒業論文の担当教授は、その柴田実先生と親しい竹田聴洲先生(故人)であった。その竹田先生から、卒業後に「京都府で民俗調査をするので調査員を探しているらしい、やってみないか」と言われた。卒業はしたが、まだそういった学術的なことに関心があり、自信は無かったが、引き受けることにした。その年の6月には京都市内・堀川会館で、分布調査の説明会が開かれた。平服でノコノコと出掛けていったら、そうそうたる面々が顔を揃えておられ、随分と大がかりな調査だと分かり、また調査事項の説明も専門的で、学部卒業レベルの自分に、果たして務まるものだろうか、と大層不安になったことを思い出す。しかしその日ないしはその直後に、京都府のほうから調査の謝礼金を前渡しで頂き、もうあとには引けない状況となった。この調査に関わるきっかけは、以上のようなことであった。ただ、この調査票をもとに、今回『口丹波民俗誌』という大層なタイトルをつけた小冊子をまとめることになった事情については、いろいろな経緯があるので、以下、時期を追って記すことで本冊子のあとがきに代えることとしたい。

 

 大学卒業直後、昭和54年から55年にかけてのこの調査は、仕事の合間をぬってやらねばならず、けっこう忙しいものであった。学生の時であれば時間の調整は比較的融通がきく。ところが、いくら事務職といっても、公務として調査活動をするのではないので、日曜日や夏期休暇などを使ってすることになる。その為になかなか継続的な調査は望めない。1日かけて聞き取りをした後に、さらに調査が必要となっても、次回がいつになるのか、予定がつかないことがあった。一方、調査地での話者の方も、以前に何を話したのか覚えていないので、何度も同じような話を聞くことになる。学生時代の時間が、如何に自由で融通の利く毎日であったかを痛感することとなった。ただし幸いなことに、調査内容が、「この事項についてあるか、ないか・・・・」といった形式だったので、それをよいことに、なるべく簡単に記述するようにした。調査票には、調査項目欄を埋めていくに留め、それ以上については、ことさらに深く追求する事はしなかった。いまから思えば、随分と手を抜いた調査であったものだと、あきれるばかりである。そうは言っても、調査に協力いただいた伝承者(話者)の方々は、どの方も熱心で、快く時間を割いていただいた。当時の調査要項には、調査完了予定の昭和55年度において、分布調査報告書として「京都府民俗地図(仮称)」を刊行する予定となっていた。私は、調査に協力いただいたお礼として、そめ本が刊行のあかつきには、その冊子かあるいはそれを複写したものを、伝承者の方々へお渡ししようと考えていた。しかし、残念ながらその後、何年たっても刊行されることはなかった(※注・当時刊行されていないものと思っていたが実際は刊行されていた、調査者にまで配付されなかっただけのようである)。それならば自分の手で、というところなのだが、悲しいかな、それだけの内容が伴った調査報告でなかったし、形にするだけの知識も金もなかった。調査を終えて、清書した調査票を、いずれまた何かの為になるかと考え、すべてのページのコピーを取った。あれから20年、伝承者の方への御礼も、調査結果のまとめも、何もせぬまま、時間だけが流れてゆき、コピーのことさえ忘れてしまっていた。その間、公私ともに、いろいろな変化があった。また住まいを京都市内においていたが、結婚後の5年目、平成4年に地元亀岡に戻ってきた。

 平成6年、私が40歳を迎えようとした頃、地元の神社の「松立て」という行事に参加した。各家の長男で、厄年と前後の都合3年間にわたって、篠葉神社のしめ縄飾り、松飾りなどを行うものである。私は、これを機に、地元のことが市史や地名辞典などに、どのように掲載されているのか調べてみることを思いつき、少しずつワープロにまとめていった。始めは数ページの資料集ぐらいに考えていたが、調べていくと、案外いろいろなところに地元のことが書かれていた。平成7年頃より作業を始め、約1年がかりで、A4版40ページ程度のボリュームになった。いくつかの項目に分類し、章・節を立てて、平成8年の秋に『猪倉風土記』という冊子が完成した。さっそく地元の方々へ1冊ずつ配付した。大学卒業後、京都市内に住所を置き、なかなか地元の社会活動に参加出来なかった事へのおわびの気持ちも込めていた。 完成の後、この冊子が「亀岡市農協だより」で紹介された。さらに「京都新聞」にも取り上げられ、冊子の実体を知らない方にとっては、ずいぶん立派な「本」を作ったものだと思われ、一旦新聞などに掲載されてしまうと記事は一人歩きする。その影響力をつくづく感じたのである。

 掲載の後、私の母校である京都府立亀岡高校の元教諭、福知正温先生から「新聞で拝見しました、ぜひ1冊譲って下さい」との連絡があった。以前より亀岡に関する出版物を数冊出しておられ、自分の冊子にも先生の書物を引用させてもらっていたので、非常に恥ずかしかったが送らせてもらった。後ほど先生よりお礼の手紙をいただいた。その手紙には、先生のご出身が曽我部町で、私の大学時代の恩師竹田聴洲先生が、同町寺村にお住まいだった頃に、竹田先生とも面識があったことが書かれてあり、不思議な縁を感じた。さらにその手紙には「大変よいものを作られましたね、これからは、お互いに情報を交換しながら、私たちの地域のくらしや文化、歴史をとどめ、町づくりをしていきましょう」と結ばれていたのである。現在、特別なことを何もしていない自分にとっては、たいそう面はゆい気持ちであり、先生の評価に応えるにはどうすればよいのであろうか、そういえば昔、民俗調査をやったことがあるな、20年前の、ほとんど忘れかけていた、あの調査報告を、何らかの形で出す以外にはないのでは、と考えるに至ったのである。また、この冊子の取材に来られた京都新聞亀岡支局の森山さんからも「今度はぜひ民俗で」と言われていた事も気になっていた。今回この『口丹波民俗誌』という形で、調査報告がまとまった事は、『猪倉風土記』を作らなければ、さらに新聞に載るといった「事件?」が無ければ、出来得なかった事かもしれない。いろいろな人との関係の中で、このような成果物が出せたのだと思う。

 平成9年の秋頃より、平成10年にかけて、20年前のコピーを取り出してきて、前回と同様、ワープロにまとめていく作業を行った。ところがこの2年間は、私にとっては、公私ともども大変忙しい年であった。わが大学には、社会人を対象とした通信教育課程を併設していて、私は当時、その課程の事務の中でも、1年の大半の日曜が仕事の中心というスクーリング課に在籍していたのである。また、自治会では、宮前町体育振興会の役員に選ばれ、さらに地元小学校のPTAの役員を2年連続で引き受けることとなり、平日も休日もまったく自分の休みが取れない、そんな年であった。そんな日々ではあるが、作業は少しずつ、出来る範囲で進めていった。もともと、調査内容自体が、あまり中身のあるものではないので、記録にあるまま、調べたままの資料を、5つの調査地区の同項目として合体させていった。「ここのところ、どうだったのか、この言葉どういう意味?」等々、不明な点、疑問に思うことは少なくなかった。しかし、そんな古い調査、いまさら何をいっても仕方ないし、再調査をする余裕もない。出来る範囲、分かる範囲でやるしかなかった。民俗学を専門にしている方からすれば、随分レベルの低い内容であろうが、私にとっては、まえがきのところで述べた、けじめとしての作業であり、その結果である。どうか、この冊子を手に取られた方は、そのあたりの事情を理解していただきたい。 なお、文章は活字にすることで読みやすい形になるが、スケッチした地図・図(間取り)は、手書きで見づらいものであったので、地名・語句だけの活字を、元の図に貼りつけている。当時のまま(20年前)の地図であるので、新しい道路については、あえて描き加えていないし、実際の縮尺とも違うことを付言しておく。

 ところで、各章ごとの項目については、歴史辞典・民俗学事典などで説明されている事柄を、出来るだけ簡潔に付け加えている。それは、調査内容の羅列だけでは、読む人が面白くない事もあるし、また学説などを付加することにより、我々の地域で行われている行事や伝承が、決してこの地域だけの特別なものでなく、古代から現代に連綿とつづく日本の文化遺産であることを示したかったのである。時として「田舎者」という表現で括られるこの地域の人々の暮らし振りが、卑下されるものではなく、むしろ誇り高い民俗文化なのだ、ということを言いたかったのである。

 私が生まれた昭和30年代は、「もはや戦後ではない」と言われた時代である。食料に窮し、貧弱な環境、教育といった時代から一線を画し、物と情報の氾濫する、ある意味での「豊かな」時代であった。食べ物に困ることもなく、スイッチを入れれば今、東京で行われている事柄を、テレビ画像を通じて見る(知る)ことが出来た。しかし、私自身はまだまだ物事を構造的に捉えることは出来なかった。つまり、テレビや雑誌を通じて手に入れた世界(情報)と、その頃の自分の周りの、旧態依然とした農家の暮らし、人々の生活に大きな隔たりがあるように感じていた。なぜにこの辺りは、こんなに田舎(不便な場所)であるのか、豊かな時代になったと、テレビでは言っているが、我々の持っているもの、着ているものは、いわゆる東京(都会)に住む人達と、なぜにこうも違うのだろうか。小学校・中学校・高校と、全国共通(同質)の教育を受けながら、一方では、格差のある生活実態に違和感を抱いていたのである。恐らく、我々の地元の友人達も大なり小なり同じ気持ちを抱いていたはずである。近くに鉄道の駅があり、大きなデパート、映画館、レストランなどのある都会に比べ、山と田に囲まれ、商業施設まで車を使わねばならぬ田舎の生活が、ある意味において「不便」であると言われるのは仕方ない。また田舎の人々は都会への憧れをもっていたこともあったであろう。

 私は、歴史や民俗を学ぶこととなった大学時代、教養課程や歴史専門科目の勉強をすることになって始めて、田舎者であることが恥ずかしいことでない、という境地に達した。笑われるかもしれないが、実際にそうであった。それは、自然が豊かとか、空気がきれい、といった都会に無いものがあるからではない。田舎であったが故に、壊されることなく、大切に守り続けられてきた民俗文化というものが、我々の故郷に、連綿と受け継がれていることに気付いたのである。そしてそれは、この地球上で営まれた、あらゆる民族(の文化)に共通した事象として存在しているものであり、歴史や民俗(民族)を解明する上での、重要な手掛かりとなる、ということが分かったからである。古くさいもの、わけの分からぬ事が、学術的に大きな価値のあるものなのだ(柳田國男『年中行事覚書』1977より啓発さる)、と思った瞬間、田舎者は恥ずかしい、という呪縛から解き放されたのである。

 さまざまな人、特に都会と言われている場所に住んでいる人との関係の中で、相手は「あなた様は、どちらにお住まいですか?」と尋ねられ、私は「亀岡の・・」と言うと、「それは大変ですね」と返してくる。この場合、質問をした人間は、交通事情や買い物の利便性、といった指標で、私(の住んでいる地域と私自身)を評価する。したがって私は、同じレベルで「そちら様は京都市ですか、便利で良い処ですね」といった具合である。しかし内心「田舎には、そこにしかない素晴らしい文化があるんだよ」と自分自身に言い聞かせているのである。

 大学生の時、恩師である竹田聴洲先生が、民俗学概論の講義教室で「藁葺き(茅葺き)の家は、最高に贅沢な家や」と言われていたことを思い出すことがある。その意味は、この手の民家は、アンティークな風体で、冬は温かく、夏は涼しい、という今の価値観でいうところの好事家の、懐古趣味的なものとして「贅沢な」というのではない、と考えている。つまり、藁葺き(茅葺き)の家の屋根の葺き替えには、大量の茅が必要とされ、1軒の家だけでは作業も出来ない。多くの人手を必要とした村全体の事業となる。そして、受け継がれた伝統的な技術を伴う。竹一本、藁縄の結び一つとってみても、そめ地域の文化・技術の粋を集めなければ出来得ない村落共同体の結晶と言えるかもしれない。その意味で贅沢なもの、貴重なものなのである。この『口丹波民俗誌』が、そんな意味での、田舎の生活に誇りを持てる一助となれば幸いである。

 

 

 
          1998年(平成10年)10月1日

 

                           編 著  太 田 貴 久 男    

 

 

 

 

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