My Favorite SongsⅠ

私の好きなこの1曲 (★あ行~さ行) ★た行~  ★ま行~

なつかしの70~80年代の洋楽を、自分自身の思い出とともに紹介します(以前にブログなどに掲載した内容をベースにしていますので「今から○年前」といった表記が現時点と少し違ったりしているかもしれません・出来るだけ修正しています)。曲紹介よりも思い出のほうが長くなっている箇所はご了承ください。また当初、紹介したいシングル盤のジャケット写真を添付しようと思ったのですが、著作権のこともあり、いろいろ考えた末、アマゾンのアフリエイト(アマゾンの販促システム=クリックするとアマゾンの商品にリンクします)の機能を使ってイメージを掲載することにしました。したがって主にシングル盤の曲紹介ですが、画像はアルバムのものであったりしていることを、はじめにお断りしておきます。順番は、アーティスト名のあいうえお順です。

★あ行

ABBA(アバ)「ダンシング・クイーン」

 ビョンル&ベニーというスウェーデン出身の男性デュオグループが「木枯らしの少女」という曲をヒットさせた。1972年の発売なので僕は高校生まっさかりだった。このグループはロックグループに入れてよいものか難しいところだ。今考えるとポップスが無難なところだ。その曲はしかし妙に記憶に残っている。たぶん深夜放送などでよく流れていたのだろう。エコーの良く利いたボーカルに野太い感じのアレンジが施され、ぐいぐい押していくような曲になっていて。僕はこの曲に、なぜかロックというイメージを持っていた。
 この二人組の一発屋が、それぞれのパートナー(フィアンセ)を合流させて結成されたのがABBA(B同士は背中合わせになっていて、もちろんこのビョンル&ベニーの頭文字をとっている、なので残りの2つの文字「A」は女性二人の頭文字のはず)である。そして1977年の大ヒットが、この「ダンシング・クイーン」である。女性ボーカル(コーラス)が入ったことで、ポップス色を前面に出し、万人向けのヒットグループとして約10年ほどの間、日本を中心として世界的な人気グループとなるのである。ただ日本での大人気とは対照的に、アメリカ音楽シーンなどでは、ややキワモノ的な扱いを受けていたらしい。
 「ダンシング・クイーン」は、これでもかというくらいのサビ的メロディを盛り込んだアレンジになっている。イントロしかり間奏しかり歌の合い間しかり、格調高いストリングスが随所にちりばめられている。じっくり聴けば聴くほど食傷気味になる(今は)、が、しかしこの曲がヒットしていたころは、うん、なかなかいい曲だ、素晴らしい、凝っているな、などと単純に感じていた。なにか、良い曲コンテスト入賞作品、という雰囲気がある。いいとこのお嬢ちゃん、といったイメージかもしれない。
 僕はこのABBAのCD(ベスト盤)を所有しているが、面と向かってじっくり聴いたことはない。この「ダンシング・クイーン」以外にも「チキチータ」「ギミーギミーギミー」等々たくさんのヒット曲満載で、値打ち的には素晴らしいアルバムなのだが、とても「濃い」のである。ベスト盤はそもそもそういうもんであるが、息を抜けるような楽曲が少ない。ふつうの感覚ならじっとりとしたバラードナンバーの「悲しきフェルナンド」といった曲でさえ「濃い」と感じてしまう。この感覚は曲のアレンジだけがどうのこうの、というだけではなさそうなのである。実は、この2組のカップルは、いわば、いい男といい女のセットだ。特にスウェーデン美人の二人の「A」さんたちのルックスは際立っている(いや際立っていた、と訂正)。したがって「こんな美人の奥さんのいる家庭は・・・、生活は・・・」との思いがつきまとうのである。
 ABBAを「濃い」と感じるのは案外このようなことによるかもしれない(僕の主観入り込みの結果)。そうであれば、ABBAは聴きやすくてあっさりとしたグループ、と感じる人もいるのだろうな、と思ったりもする。

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イーグルス「ホテル・カリフォルニア」

 アメリカ建国200年の年にあたる1976年のヒット曲。解説によると、このレコーディングに、合計11本のギターがオーバーダビングされていたとか(凄すぎる!)。
 当時、僕は大学2回生だった。そしてこの曲をよくラジオで聴いていた。何度聴いても飽きのこない曲だ。ギターソロのところなんか、僕にも弾ければなぁ、などと思っていた。ある時、ヒットチャートの番組だったと思う、番組のパーソナリティの湯川れい子さんが、この曲を紹介するときに「アメリカはこれでいいのか、これからどうなるんだ」という内容の話をしたのである。僕には、この曲は大ヒットしたし、陽気なアメリカのウェストコースト・サウンド、というイメージがあった。しかし実はそうではなかったようだ。
 この曲の歌詞は、ハイウェイを旅する客がカリフォルニアホテルへ宿泊し、そこでのもてなしや、ホテルで見聞きし、感じたことを綴っている。しかしよく歌詞を見てみると、後段部分にちょっと気になる箇所があった。「このホテルに居るのは囚われの身となった者ばかりなのに祝宴が始まろうとしているんだ(要約)」。
 1976年は、まだベトナム戦争の後遺症にアメリカ全土の若者が失望感を抱かされていた頃である。そんな病んだ国民をよそに、国の方では建国200年を祝っている。若者たちには、その祝宴になかなか共感できない気分があった。本当にこの国はこのままでいいんだろうか、というのが、この曲に込められたメッセージだったのだろう。つまりはカリフォルニアホテルは、アメリカ合衆国のことを言っていたのだった。湯川れい子さんの曲目説明は、そのことを言っていたのだ、ということが、ずっと後になってから分かったのである。この曲のヒットも手伝って、同時期、日本人のアメリカ西海岸への渡航が飛躍的に伸びたらしい。しかしながらこの「ホテル・カリフォルニア」の歌詞の意味を何人の日本人が理解していたことだろう。  

イーグルス「テイク・イット・イージー」

 イーグルスは、1971年に米国ロサンゼルスで結成される。オリジナル・メンバーは、ポコでプレイしていたランディ・マイズナー(ベース)、フライング・ブリトー・ブラザースに参加していたバーニー・リードン(ギター、マンドリン他)、J.D.サウザーとのデュオですでにプロ・デビューを果 たしていたグレン・フライ(ギター、ボーカル)、そしてドラマー兼シンガーのドン・ヘンリー(ドラムス、ボーカル)の4人である。曲の内容は「Take it easy(=無理しないで・気楽に)」の言葉そのままで「くよくよしないで気楽に行こう」と歌っている。
 彼らが知り合ったきっかけは、1971年にリンダ・ロンシュタットが実施したサマー・ツアーのバックアップ・メンバーとして全員が招集されたことにある。その後、1972年の初めにリリースされたリンダのサード・アルバム「リンダ・ロンシュタット」のレコーディングでも顔を揃えた4人は、これを機に意気投合し、イギリスへ渡って英国人プロデューサー、グリン・ジョーンズのアドバイスのもとでイーグルスとしてのデビュー・アルバム「イーグルス・ファースト」を作り上げる(1972年リリース)。
 この「テイク・イット・イージー」(作詞・作曲 ジャクソン・ブラウン、グレン・フライ)は、イーグルスのデビュー・アルバム「イーグルス・ファースト」からシングル・カットされて全米チャートのトップ10入りを果 たした彼らの記念すべきデビュー・シングルである。
 ギター2本のストロークでイントロが始まり、ベースとドラムスが加わる。ボーカルはグレン・フライだが、随所にコーラス部分があり、中盤ではバンジョーのアルペジオが入り、カントリー・ミュージック風のアレンジになっている。もともとウェスト・コーストの音楽シーンから登場したバンドのため、いかにもアメリカを代表するルーツ・ミュージックの色彩があるのは当然だが、別に作詞を担当したジャクソン・ブラウンのバージョンと比べると、ややロック色が濃い感じである。この流れは、その後の「ホテル・カリフォ

ルニア」という大ヒットの予兆を感じさせるものがある。どちらにしても、70年代、イーグルスのデビュー曲、ウェストコーストの名曲である。
 ついでの話であるが、この曲は、ウルフルズの「かわいい女」のもと歌なのだそうだ。そういえば「Take it easy ~」と「かわい~い女~」のところは同じような気もする。  

ヴァン・モリソン「クレイジー・ラブ」

 アイルランド出身の孤高のソウル・シンガー、ヴァン・モリソンのワーナーからの2作目のアルバム『ムーンダンス』に入っているラブ・バラード。日本語に訳せば「熱烈な愛」というタイトルになる。
 アイルランドは多くの独特の雰囲気を持ったミュージシャンを輩出している国である。U2、エンヤ、ザ・コアーズ等々。そんな土壌の中でもヴァン・モリソンは、どちらかというとアメリカの黒人音楽(ブルース、ソウル、ジャズ)に近い志向がある。それは小さい頃より音楽好きな両親の影響により、カントリー音楽やブルースを聴いてきたことによるのであろう。もともとアイルランドの国民性として、音楽好き、酒(ウィスキー)好き、という特徴がある。そんな風土の中では異色のソウル・シンガーであろう。
 「クレイジー・ラブ」は数年前にライブハウスの「たくたく」で古田君(なまず兄弟バンマス・地元亀岡出身のシンガー)が歌っていた。彼はヴァン・モリソンのことをいたく気に入っていて、この曲も丁寧に歌い上げていた印象深い曲である。

ヴァン・ヘイレン「ジャンプ」

 1973年にアメリカ西海岸でヴァン・ヘイレン兄弟を中心に結成。1978年にデビューしたハード・ロック(ヘビー・メタル?)・バンド。1984年に出した6作目のアルバム『1984』で大ブレイク。そのアルバムの1曲目を飾るのがこの「ジャンプ」。シンセサイザーのイントロにベースが重なり、軽快な曲調でデイヴ・リーのボーカルが始まる(このアルバムの印象を強くしている1曲だ)。間奏にはしっかりとヘビーなヴァン・ヘイレンのギター・ソロが入る。この曲はハード・ロックというには、ややポップな仕上がりとなっている。その理由は、ギターやボーカルがややもすれば目立ちがちなこの種のグループでそれらを少し抑え気味にし、シンセサイザーが効果的にアレンジされているからであろう。
 この「ジャンプ」に出会ったのは、大学の体育館が新築された時だった。そのこけら落としとして、実業団女子バレーボールの試合と、新体操の模範演技が披露された。新体操など、直(じか)に見るのははじめてのことで、カラフルなレオタード姿で、音楽に合わせ、ボールを使ったり、布をひらひらさせて、とてもなまめかしく、セクシーだった。その女子新体操の演技の後に、男子新体操というプログラムがあった(へーっ、新体操って男子もやるもんなんや、とはじめて知った)。女子に比べると、全員が同じ体操着(白でもっこり)を身につけている関係で、華やかさ、色彩のバラエティはないが、その演技の内容は、男子らしく迫力のあるものであった。高く飛んだり、敷かれたマット全面を使ったアクロバット的な演技で、まるで、イルカショーを見ているようであった。その男子新体操で使われていた曲がこの「ジャンプ」だった。曲に合わせてうまいこと飛んだり跳ねたり、よくこんな曲に合わせられるもんだと感心した思い出がある。
 そして十数年後、付属の幼稚園に勤務していた頃、毎年夏休みの終盤に親子を集めて盆踊りなどを行うイベントがあった。幼稚園の先生の指導のもと、親子でダンスをしたりゲームをしたりするのである。その行事のフィナーレを飾るイベントは「花火大会」と決まっていた。花火といっても遊戯用のものではあるが、主に打ち上げ花火をこれでもかと購入する。それは派手な花火となる。そのスタートを飾るBGMにこの「ジャンプ」を使わせてもらった。暗闇の中で最初に打ちあがるひと筋の花火、そしてヴァン・ヘイレンのBGMに続いて花火の乱れ打ち・・・なかなかピッタリの演出と自己満足している。

ヴィッキー「恋はみずいろ」

 この曲はポールモーリアの演奏の方が有名だが、僕はヴィッキーの方が好きだ。日本でヒットしたのは1969年というから、僕は14歳の頃である。「Comme l'eaur Comme l'eaur qui coure」 の部分が「こもろ~こもろ~聞く~」と聴こえていた思い出がある。
 ヴィッキーはギリシャ生まれ(1949)の彫りの深い美人アイドル歌手である。CDのライナーノートによると本名はヴィッキー・ヴァシリキー・レアンドロス・ババサナシウという恐ろしく長い名前だ。この曲はフランス語で歌っている。また英語や日本語でもヒット曲があり、当時ヨーロッパ・アメリカ・日本でも人気があった。ヴィッキーの歌った日本語の曲としては「待ちくたびれた日曜日」「私の好きなチョコレート」「時の流れのように」などがあるが、まあよほどのタイミングで知らない限りマイナーな曲ではある。ちなみに僕は知ってはいたが・・・・。それ以外にも「悲しき天使」というメリー・ホプキンのヒット曲も歌っていて、日本では両方ともヒットした。声質ではヴィッキーの方がキュートな感じである。

エリック・クラプトン「ティアーズ・イン・ヘブン」

 1991年3月に不慮の事故で息子、コーンを亡くしたクラプトンが、失意の中で、その息子に向けたメッセージとして作ったのが「ティアーズ・イン・ヘブン」である。クラプトンとイタリア人女優、ロリ・デル・サントとの間に生まれたのが1986年の夏(8月)。その秋に制作したアルバムには、息子の誕生月にちなんで『オーガスト』とされた。実はそのコーンの母、ロリとは、正式に結婚していなかった(できなかった?)。しかしクラプトン自身が少年時代に同じように両親と一緒に暮らせなかった不幸な過去があり、自分の息子に同じ目にあわせたくないと思っていたようだ(それでいろいろと努力をしたらしい)。が、結局、結婚には至らなかったようである。そしてコーンが5歳になる直前に事故が起こったという。しかもその時には、息子の住むアパートの10ブロックほど離れたホテルに滞在していたという。
 クラプトンの周りの人間は、またドラッグと酒に溺れる生活をするのではないかと心配したという。確かに息子の事故後数ヶ月間、マスコミの前から姿を消してしまった時期があったそうだ。ところがその間、クラプトンは酒を飲むのではなく、ゲームボーイで「テトリス」をしていたという。そしてそのゲームに明け暮れていたらしい。後に彼は「テトリスは精神治療的ゲームだ」と言ったという(ある意味周りの人間は安心したであろう)。そしてその5月、久々にギターを手に取る。それは小さなナイロン弦のギターで、爪弾いているうちに2曲の小品が出来た。そのうちの1曲が「ティアーズ・イン・ヘブン」だった。「我が息子よ、私が天国に行ったときに憶えていてくれているか(要約)」という内容である。
 この曲は翌年公開された映画『RUSH』のサウンドトラックに取り上げられた。またアンプラグドというコンサートを収録したアルバムでも演奏しており、これはその年のグラミー賞を獲得している。
 クラプトンはもともとブルース・ミュージシャンであり、曲の大半はブルースである。しかし「ワンダフル・トゥナイト」「チェンジ・ザ・ワールド」そしてこの「ティアーズ・イン・ヘブン」は、楽曲としてもポピュラー・ミュージックとしてカテゴライズされるほど、誰にでも好まれ聴かれる素晴らしいバラードである。アンプラグド以後にスタジオ録音されたバージョンではストリングスなども加わり演奏も厚みのあるものになってはいるが、やはりこの曲は生ギターと軽いパーカッション程度の編成で聴くのが一番心地よい。

エリック・クラプトン「オーバー・ザ・レインボウ」

 数年前、三菱モータースのコマーシャル・ソングで使われていた。クラプトンのワールド・ツアーを収録した2枚組アルバム『ワン・モア・カー・ワン・モア・ライダー』の最後を飾っているスタンダードの名曲。
 「オーバー・ザ・レインボウ」は、E・Y・ハーバーグ(作詞)とハロルド・アーレン(作曲)により、1939年、ミュージカル映画「オズの魔法使い」のために書かれた曲。その主役を演じた当時14歳のジュディ・ガーランドが歌い、大ヒットした。14歳の少女が歌うには、テンポがゆっくりな事、冒頭からいきなり1オクターブもあがる、という難しいものであったが、ジュディ・ガーランドは見事に情緒豊かに歌い上げている。
「♪虹の彼方にある素敵な国へ、私も行けるはず・・・(要約)」という内容。
 それから約60年後、2001年のクラプトンのワールド・ツアーでは、24ヶ国80都市、100回以上のコンサートが行われ、最後にこの「オーバー・ザ・レインボウ」が歌われている。クラプトンにとって、このツアーは最後のステージと噂されていた。アルバム・タイトルの絵柄には、ギターを持った男(クラプトン)が、十字路(CROSS ROAD:クラプトンの音楽的基盤となった大御所、ロバート・ジョンソンのクロス・ロード・ブルースを意識したものらしい)に止まった車に乗り込もうとしている図が描かれている。新しい境地へ向かう、あるいは原点に戻る、そのどちらになっているのかは不明だが、コンサートの最後に「オーバー・ザ・レインボウ」を取り上げていることは、今後のクラプトンの方向性を示唆しているようである。

エルビス・プレスリー「Can't Help Falling In Love」

 エルビス・プレスリー。彼がいなければ、ビートルズもストーンズも出現していなかったかもしれない。また若者のトレンドの行方も別の方向になっていたかもしれない。それほど影響力の強い、そしてロック音楽をポピュラー音楽の座に押し上げた偉大なシンガーである。
 エルビスがプロとして活動を始めたのは1953年。1956年にリリースされた「ハートブレイク・ホテル」は彼の出世作。腰を振り振りギターを低く構えて弾くスタイルは当初、世間の非難の対象であった(現在のロックバンドのボーカリスト等のパフォーマンスは、彼の影響なしには語れない、その存在を知っていようが知っていまいが)。
 この「Can't Help Falling In Love」は邦題「好きにならずにいられない」でよく知られている。プレスリーがコンサートで一番最後に歌う曲としてファンには認知されている。この曲の元は、マルティーニの「愛の喜び」だという。それをヒューゴー・ペレッティ、ルイジ・クリート、ジョージ・デヴィッド・ウェイの3人の音楽家がプレスリー調に編曲したらしい。そして1961年に自ら主演した映画「ブルー・ハワイ」の主題歌となり、全米2位のヒットとなった。甘くしっとりとしたバラードで、激しいステージの最後、またはアンコールで歌うには最適の曲だっただろう。短い構成だが、心にしみる。
 多くのミュージシャンがカバーしているが、UB40のレゲエバージョンは数年前CMソングに使われよく知られている。その他、あのボブ・ディランもけだるい調子でカバーしているし、カナダ出身のロック歌手、コリー・ハートのバージョンもなかなか聴かせる。同時期、レイ・チャールズの「can't stop loving you(愛さずにはいられない)」もヒットし、can not help ~ing は、~せずにはいられない、という構文を覚えるのに当時の受験生への最適なテキストとなったであろう(実際、僕が中学生になったころに、この古いヒット曲の英語で構文を学んだ記憶がある)。

エルビス・プレスリー「この胸のときめきを」

 ロックンロールの草創期に「ハートブレイクホテル」で鮮烈なデビューを果たしたプレスリーは、一時期、なりを潜める時期があった。一説には肥満により音楽活動が出来なくなった、という話もあったが、1970年になって、ハワイでのライブ「エルビス・オン・ステージ」が全世界に衛星中継され再び世に出ることとなった。その時に歌っていたのがこのバラードだ。「When I say I need you~」という歌いだしで、そこから伴奏がはじまり、そして美しいメロディへと続く名バラードだ。そして多くのボーカリストがカバーしている。
 プレスリーのデビュー当時はリーゼント、皮ジャン、ロカビリー、といった言葉が似合う時代だったが、この「エルビス・オン・ステージ」からは、上下真っ白の飾り立てた衣装、オーバーアクション、エンターテイメントというイメージのプレスリーになった。僕はこのプレスリーがとてもかっこいい、とその頃に感じた。そしていつかプレスリーのような衣装を着て、ステージに立ってみたいと思った。
 その夢は案外早くやってきた。1973年だったろう、高校3年のときの学園祭で、友人の吹くサックスと合わせたバンドでステージの出演が決まった。そして1曲、僕のパフォーマンスをすることとなった。迷わずプレスリーをしようと思った。歌う曲はもちろん「この胸のときめきを」のはずであったが、僕自身の歌唱力不足、英語力不足により、結局、同時期に流行していた「バーニング・ラブ」になった。こちらの曲の方はアップテンポで、歌詞も憶えやすかった。衣装は「トレパン」と呼ばれていた上下白のトレーニングウェア(今、こんなダサい体操着はないだろう)に、バンドメンバーでピアノ担当の女の子(美術部)が、金色の大きなボタンとか、腰に巻く鎖のようなものまでを作ってくれて飾りつけた。あとストレートのズボンを広げ、ややラッパズボンのような仕様にした。これでにわかプレスリーが出来上がった。そしてサングラスをかけた(が、僕はメガネをかけている関係で、サングラス着用中は周りがまったく見えなかった)。
 当日はクラスの皆も応援に来てくれて、その時ばかりは、プレスリーのようなエンターテイナーの気分であった。懐かしい思い出であり、プレスリーの名前が出ると思い出すのである。

1973/亀岡高校体育館
1973/亀岡高校体育館

オーティス・レディング「THE DOCK OF THE BAY」

 1968年のオーティス・レディングの代表曲。R&Bのシンガーであった彼は、この曲をレコーディングした直後、飛行機事故により帰らぬ人となる。26歳の若さであった。短い音楽活動の中でも多くの名曲を生み出している。「リスペクト」「アイ・キャン・ターン・ユー・ルース(おまえを離さない)」「トライ・ア・リトル・テンダネス」「ジーズ・アームズ・オブ・マイン」「サティスファクション(→R.Sのカバー)」等々、いっぱいある。上田正樹の初期のころ、京大西部講堂などのライブでこの「お前を離さない」を必ずアンコールで延々とやっていた。
 多くのヒット曲はあるが「ドック・オブ・ザ・ベイ」ほどポピュラーな曲は、R&Bシーンでも空前絶後。他の曲は知らなくても、この曲はどこかで聴いたことがあるだろう。なにしろ全米トップになった曲なのである(日本でも大ヒット)。R&B通の人に言わせると、この曲はソウルではなくてポピュラーだ、とジャンルから除外する向きもあると聞く。しかし僕は立派なR&Bであり、ソウルミュージックだと思う。
「港のドッグに坐って海をぼんやり見つめている(要約)」という内容。
 日本人アーティストでもカバーしている人が結構いる。忌野清志郎、大木トオル、柳ジョージも、上田正樹も、BOROなんかは日本語に訳して歌っている。それほどの名曲だし、聴くものの心を癒すし、歌っていて癒される。俗にAメロと言われるはじめの部分のけだるいメロディからサビへ繋がり、聴かせどころとなる(ここがボーカルの力量の発揮どころなのだが、アマチュアごときには難しい部分だ)。そしてまたAメロへ・・・・。間奏では口笛も出てくる。
 中学生のころにこの曲を聴いた。ブラックミュージックなどまだ興味のなかった時代だが、この曲だけは「いい曲」として心に残っている。数十年後に、自身のバンドで演奏するなんて想像することもなかった時代の話だ。

オーティス・レディング「トライ・ア・リトル・テンダーネス」

 「オーティス・レディングの歌は、第二次世界大戦後の世界の大衆音楽が咲かせた、もっとも美しい花のひとつだ。(中略)人間の悲しみのいちばん奥底から歌いかけてくれるオーティスの歌を、いまのぼくたちがますます必要とするようになってきている。(中村とうよう/1977)」
 音楽評論家の中村氏がこのようにアルバムのライナーノートに書き記している。そのオーティスは、1962年の秋、メンフィスのスタックス・レコードで自作の「These Arms of Mine」でデビューした。弱冠21歳の若さであった。その後、アメリカやヨーロッパで精力的に活動し、「Come To Me」「愛しすぎて」などがヒットし、世界的に知られるところとなった。デビューから5年後、1967年12月10日、ウィスコンシン州マディソン近くの湖「モノナ」上空で飛行機事故を起こし、湖に墜落、帰らぬ人となった。26歳、活動期間はわずか5年間であった。そして皮肉なことに、彼の最大のヒット曲「ザ・ドッグ・オブ・ベイ」は、翌1968年に全米ナンバーワンヒットとなった。
 この「トライ・ア・リトル・テンダーネス」は、ポピュラーのスタンダード・ナンバーである。それをオーティスなりにソウルフルに歌い上げている。はじめはスローなバラード調で、だんだんとテンポがアップし、最後はシャウトするほどに盛り上がる。日本人では上田正樹がコンサートなどでこの曲を歌っている(これまたオーティスを意識したノリノリの曲に仕上げている)。
 以前、テレビ番組で特別企画として「赤ひげ」という黒沢明作品のリメイクのドラマが放送されたことがある。この番組にさりげなく、「トライ・ア・リトル・テンダーネス」が使われていた。

オリヴィア・ニュートン・ジョン「そよ風の誘惑」

 1975年の全米ナンバーワンヒットである。この曲は、数年前にもダンス・ミュージックとしてリメイクされ、そこそこのヒットをしている。
 SONYのプレイステーションというゲーム機のソフトに「ダンス・ダンス・レボリューション」というのがある。床にマットを敷いて、その上にツイスターゲームのようなシート(コントローラー)を乗せ、その中央に立ってテレビ画面の指示に合わせて足を前後左右斜めに踏み込み、その正確さ機敏さを競うゲームである。数年前、我が家でも日頃の運動不足解消のためソフト・マット・専用コントローラーの一式を購入し、当座は毎日のように床をドンドン鳴らしていた(現在はほこりをかぶっている)。このソフトには、レベルに合わせていろいろな曲が入っている。KC&ザ・サンシャインの「ザッツ・ザ・ウェイ」はやや難しいレベル、といった具合。その中のもっとも初心者向けのレベルの曲が、このオリビアの「そよ風の誘惑」であった。かつて僕が大学生の頃に聴いたバージョンは、とても静かでそれこそ文字通りメロウな曲で、それがダンス・ミュージックにリメイクされているわけなので、はじめ、オリビアとは結びつかなかった。「あれ~、どっかで聴いたことあるな~」なんて言いながら、とりあえず足を動かさないといけないので、じっくりと思い出せずに必死でテレビ画面を見る目と足の間の反射神経を鍛えていたのである。
 一時期、オリビアは、日本の捕鯨文化に対して嫌悪感を持ち、「日本には行かない」と言っていたが、実際、その発言の2年後に来日し、各地で公演した(その発言の影響があったのかは不明だがコンサートの入りは芳しくなかったらしい)。この変わり身の早さは何であったのだろう・・・・。それにつけてもオリビアは魅力的な女性である。その後に映画とタイアップしてヒットした「ザナドゥ」「グリース」「フィジカル」などの姿を見ると、やはり男性側としては、捕鯨問題よりも、その美貌(およびボディライン)の方に関心がいく。数ある海外女性アーティストの中でもトップクラスの美人ではないだろうか。

★か行

カーペンターズ「遥かなる影」

 カーペンターズは1969年にビートルズのカバー「涙の乗車券」でデビューした兄妹デュオグループ。兄のリチャードはピアノ、妹のカレンはドラムスという楽器を担当しつつ、メインは二人のハーモニー。1970年代に多数のヒット曲を出している。
 2ndシングルがこの「遥かなる影(They Long To Be Close To You)」である。1970年のヒット、大阪万博のあった年である。「涙の乗車券」に比べると、かなり暗い曲調である。おそらくヒット当初、中学生の僕には、その良さを十分に理解出来なかったことと思う。しかしヒット曲は、ラジオを聴いていれば常に流れてくるものだ。自然とこの曲に慣らされていったのも事実で、今でもこのメロディは、何かの拍子で口をついて出てくるし、当時の懐かしい風景も同時によみがえる。切々と歌う、という形容がふさわしいかどうか分からないが、カーペンターズのたくさんのヒット曲の中でも名曲と言ってもいいのではないだろうか。
 1983年、妹のカレンは帰らぬ人となる。当時、カレンは結婚をしていたと思うが、兄との関係とか、そのことから生じた拒食症という病、ビッグアーティストとしての負担、等々、何かと噂があったが、あの聴くものを魅了する美しい歌声はもう生では聴くことが出来ない。しかし、残された楽曲の数々は、20世紀を代表する曲として、これからも消えることはない。

カーペンターズ「トップ・オブ・ザ・ワールド」

 オリジナルのカーペンターズは、この曲を1972年の『A song for you』というアルバムに収録している。ところがアレンジが気に入らなかったのか、翌年にスチール・ギターのアレンジを変更し(カレン・リチャード両名の要望)て再録音し、日米で、文字通りヒットチャートのトップに立った。
 アップテンポのカントリーっぽい曲調だが、カーペンターズ特有のメロディラインの美しさがある。歌いだしの大人しい目のメロ、さびから次第にテンポ良くなり、スチールギターの跳ねるようなアレンジが効いている。僕は、この曲がヒットしていたころは、万人向けの楽曲を提供しているアーティスト、カーペンターズ、という意識があり、少し腰を引いて聴いていた。嫌いではなく、むしろ好きなアーティストなんだけど、そう夢中になることはなかった。しかし、これまた今、聴いてみて、彼らのヒット曲の素晴らしさを実感している。

カーペンターズ「愛のプレリュード」

 英語題「We've Only Just Begun」。一時、ウェディングソングの定番だったようだが、今はあまり使われないか(「愛と青春の旅立ち」・・これも古いか)。カーペンターズの3枚目のシングルヒット曲となる。以前、職場にピアノおよびキーボードのすごく上手い女性職員がいた。僕がバンドを始めたころ、何度か一緒にやったことがある。ある年の年末に忘年会があり、彼女のキーボード演奏というコーナーが余興としてあった。1曲は打ち込み伴奏入りのフュージョンぽいインストルメンタルナンバー、2曲目にこの「愛のプレリュード」だった。そしてボーカルとして、僕がシャシャリ出ることになった(なってしまった)。選曲は彼女の方からの申し出で、僕は初チャレンジの曲を必死で練習した。しかし、この曲はけっこう「ため」があり、難しかった。しかし、そこはボーカルといってもキーボード演奏のつまのようなもの、その演奏の方を際立たせる結果となったのは言うまでも無い。この曲にはそんな想い出がある。

カーラ・ボノフ「涙に染めて」

 イーグルス・ファミリーの一員、カーラ・ボノフのセカンドアルバム「ささやく夜」に収録されたシンプルな曲。1979年の作品で原題「Trouble Again」。ボーカルだけの歌いだしではじまり、ドーン・ドーンというベースその他の楽器が入る印象的な曲だ。ちょっとドラマなんかの挿入歌として使いたいようないい曲。なんとなく聴いていてハッピーになる(涙に染めて、なのに・・・)。
 この年の3月、僕は大学を卒業した。そして4月から社会人になった。前年の6月には、教職課程を取る為に行った中学校への教育実習の経験で、一度は教師の道を考えたこともあった。しかしその夏の教員採用試験の失敗から、再度(翌年に)受験をしても、合格する自信もなく、4回生の後半は気持ちを切り替え、就職活動で京都市内の企業を訪問することに没頭した。結果として学校法人の事務職への就職が決まった。その就職活動中の企業訪問で感じたのは、僕の卒業した文学部が、いかに就職に不利なのか、ということだった。「大学では何を勉強しました?」という面接担当者の質問に「歴史学ですが・・・」と答えるしかなく、そのリアクションとして「ホーッ、学者にでもなったらどうです」と皮肉を言われ、返す言葉のないいやな思いを何回かした。心で「経済学部とかやったらいいんちゅうんかい!!」「ここに来たのは就職を希望してるからにきまっとるやろ!!」と思いつつ、すごすごと帰り、不採用の通知を何度かもらったものだ。今思えばそれも懐かしい記憶ではあるが、なにかの間違いで、もしその企業に就職していたら、僕の人生どうなっていたのだろう、と思う今日この頃。
 そしてこの1979年の夏にはソニーのウォークマンが発売された。今のウォークマンに比べるとずいぶん大きなボディでずっしりとしていた。しかしステレオの音楽を街中で聴くことが出来る画期的な製品だった。僕はソニーのウォークマンを真似た製品を買った(値段の安いちゃちなものだった)。それでも十分満足していた。

カーリー・サイモン「うつろな愛 You're So Vain」

 カーリー・サイモンは1945年6月25日、ニューヨーク生まれ。「君の友達」で有名になったシンガー・ソング・ライターのジェームス・テイラーと結婚生活を送ったこともある(数年後に離婚)。1973年に発表した3作目のアルバム「ノー・シークレッツ」のシングルカットとして、この「うつろな愛」は全米ナンバーワンのヒットとなった。ベースのおどろおどろしいイントロから始まり、ギターのカッティング、ピアノなどが入り、けだるい感じのカーリー・サイモンのボーカルとなる。しっかりとした、少しラウドなベースとドラムスが、とても力強いサウンドを醸し出している。サビの「~♪You're So Vain~」のところは圧巻で、当時のカーリーの脂の乗りきった歌声が聴ける。そしてこの曲にはコーラス(というよりもサブ・ボーカル)として、あのローリング・ストーンズのミック・ジャガーが参加していることでも話題になった。ちなみにこの曲の収められているアルバム「ノー・シークレッツ」にはミック以外にも、ポール・マッカートニーやジェームス・テイラーなどのそうそうたるミュージシャンが顔をそろえている。

キャロル・キング「心の炎も消え」

 キャロル・キングの最高傑作のアルバムと言われている「つづれおり(Tapestry)」に収められている曲。彼女はもともとは作曲家として数々のヒット曲を書いていた。それがシンガー・ソング・ライターとして自らレコーディングするようになったのは、ビートルズの影響であると言われている。つまりビートルズはすべてを自分達で作り演奏するというスタイルであり、それに衝撃を受けたというのである。
 それまで一緒に数々のヒット作品を生み出してきたパートナーであるゲリー・ゴフィンと離婚し、ベースプレイヤーのチャールズ・ラーキーと新しい結婚生活を始めた頃にこのアルバムが出た。そして「心の炎も消え」は、その当時の彼女の偽らざる心境を歌ったものとされている。
「遅すぎる、心の炎が消えたのを私は隠すことが出来ない(要約)」という内容。
 僕は、このアルバムが出された1972年の頃(高校生時代)には、だるい曲だな、という程度の認識だったが、バンドでやるようになり、また歌い込むにつれ、なかなか渋い深みのある曲だと思うようになった。特にピアノのメリハリの利いたフレーズがイントロと全編を通して繰り返し流れているのが印象深い。またこのアルバムでアコースティックギターを担当しているのはジェームス・テイラーである。

ギルバート・オサリバン「アローン・アゲイン」

 ギルバート・オサリバンは、1946年にアイルランドで生まれる。ビートルズやキャロル・キングに影響を受けて作曲を始める。デモ・テープをレコード会社に送ったが封も切らずに送り返されてきたことに発奮し、単身ロンドンへ。そして1967年にデビューするも、当時のサイケデリックミュージックの時流に合わずまったく売れなかった。しかし1972年に、この「アローン・アゲイン」が大ヒット。ポール・マッカートニーをして「僕の後に続くアーティストはエルトン・ジョンとギルバート・オサリヴァンだ」と言わしめたほどであった。それほど才能を認められていた。「アローン・アゲイン」は、1972年、全米で6週連続ナンバーワンとなった。ピアノ主体の伴奏で、牧歌的なメロディは、聴くものの心を和ます。僕は知らないが、テレビのアニメ「めぞん一刻」の主題歌にもなったらしい。

クリーデンス・クリアウォーター・リバイバル「光ある限り」

 この「光ある限り」の原題は「Long as I can see the light」 だったと思う。スローテンポでブルース色の強い曲だった。実はこの曲。「Looking out back my door」のB面だった。「Lookin~」はカントリー調でノリの良いCCRらしい曲なので、高校?当時はこちらを聴くつもりで買ったのであろう。その後、B面の良さがじわじわ分かってきて、どちらかと言うとB面ばかりを聴くようになったので印象が強く残ったのである。
 このレコード(中古品)を買ったのは四条寺町を下がる電化街の中にあった津田蓄音機店(「ツダチク」と呼ばれていた)という店で買った。その後ツダチクは河原町今出川の今出川通りに店を移し、大学時代は中古レコードを買うのによく利用した。そして現在は、河原町通り側に、またまた場所を移し、CDを中心とした店を開いている。ひとつのレコードから色々なことを想い出す(注・2011年3月時点で「ツダチク」は閉店した)。

クリーデンス・クリアウォーター・リバイバル「雨を見たかい」

 ジョン・フォガティ率いるアメリカのロックバンドCreedence Clearwater Revival(略してCCR=シー・シー・アール)。チャラチャラした恋愛を歌ったものではない。テーマは天気(雨)だ。こんな内容の詞でも、アメリカではヒットチャートへ登場するということだ。しかし一方で、この歌詞には、1970年当時、泥沼化するベトナム戦争への反戦歌だという説があり、実際、放送禁止になったという。つまりこの雨というのは、アメリカ軍の撒き散らすナパーム弾のことらしい。たしかに「Coming down on a sunnyday」となれば、晴れた日に落ちてくる雨、ということになる。
 サイドギターのジャカジャーン~というストロークが印象的で、コードも簡単でノリの良い曲だ。日本のアーティストも桑田圭祐のクワタバンド、ずいぶん昔だがカップヌードルのCMソングに使われたイチローのカバー曲としても知られている。

グランド・ファンク・レイルロード「ハートブレイカー」

 1969年結成のハードロックバンド。彼らのアルバム「We're An American Band」の名の通り、アメリカンロックのパワフルでストレートなヒット曲が多い。バンドのメンバーは、ギターのマーク・ファーナー、ドラムスのドン・ブリューワー、ベースのメル・サッチャーという3人のシンプルな構成。しかしながら、ギターアンプを何台もステージバックに積み上げ(まるでアンプの壁)、そこから出される楽器の音に聴衆は興奮した。
 この「ハートブレイカー」は、ミディアムテンポの曲ではあるが、ハードロック特有のひずみを効かしたギターと激しいドラミングで、聴く者を魅了する。特に「heartbreaker~heartbreaker~」というマイナーコードのサビのところがハードな中のメロウな部分として、全体の曲構成の中で光っている。当時、アマチュアバンドはこぞってこの曲をコピーしていた。
 1971年に来日し、東京と大阪で公演した。この時、会場となった東京の後楽園球場は、どしゃぶりの雨と雷に見舞われたが、観客はずぶ濡れで、その大音響を堪能した。むしろ自然が演出した雷雨というロケーションは、彼等のステージをいっそう盛り上げることとなったし、今も語り草となっている。
 僕は当時、高校1年生だった。毎月は買わなかった(買えなかった)が、ときどき「ミュージックライフ」という月刊誌を買っていた。その雑誌に、この後楽園でのグランドファンクのコンサートの模様がグラビアページに掲載されていた。「すごいコンサートやったんやなー」と思ったし「行ってみたいなー」とも。演奏者も観客もずぶ濡れだった。しかし積み上げられたギターアンプの迫力は、当時、アンプなんかは1個で十分うるさいもの、という認識を持っていた僕にとっては、その音がどのような大音量なのだろうか、と大いに関心を持ったのである。
 ビートルズの東京公演もそうであったが、70年代前後のロックバンドのコンサート(ライブ)では、ボーカルはボーカルアンプ、ギターはギターアンプ、というように別々にセッティングされていた。したがって音のバランスなどは、それぞれがアンプのボリュームを上げたり下げたりして調節していた。今のようにPA(ピーエー:Pablic Address:大衆への広報システム=すべての楽器・ボーカルの音を一旦ミキシングコンソールへ入れ、そこで技術者がバランスを調節し、ふたたび大スピーカーへ送るシステム)が導入される前のことで、この後楽園球場でも、直にアンプの音を出していたはずである。楽器の大音量と雷の音、どんな音だったのだろう???

クリスティ「イエロー・リバー」

 ギター、ベース、ドラムスのシンプルな編成、3人組(Jeff Christie、Vic Elmes、Mike Blakley)のイギリスのグループ、クリスティの1970年のヒット曲。グループ名は、リーダーのジェフ・クリスティから命名したようだ。単調なメロディながら、軽快なリズムと伴奏により、聴いていて気持ちのいい曲である。
 高校生の時、吹奏楽部の女の子のアルト・サックスをメインにしたインストルメンタルなバンドをやっていた。そう言えばカッコ良く聞こえるが、実際は、簡単な楽譜(主旋律とコード、歌詞だけの楽譜)が掲載された音楽雑誌をもとに、アルト・サックスには、歌手が歌うメロディを吹いてもらい、ギターやベース・ドラムスは、適当にコードを間違えないように、リズムが狂わないように弾いている、というバンドだった(当時の我々には、コピーとかアレンジの概念は無かった)。いろいろな曲にチャレンジした中に、このクリスティの「イエロー・リバー」があった。ただし、この曲だけは、メロディをギターで弾くことになり(ギターの方が感じがよいだろうと)、僕がこのメロディにチャレンジすることとなった。もともとこの曲自体、メロディが単調なので、楽譜を見ながらなら、なんとか弾くことが出来た。ただし、この原曲、クリスティのは、曲の最後にしつこくアドリブを入れている(とても軽快、跳ねるようなリードギター)。普通、そんな付け足しのような部分、無視してもよかったのだが、この最後の部分がまたいい感じなのである。なのでこの部分は外せなかった。しかし雑誌などの楽譜にはその部分は掲載されていない。当然コードも分からなかった。今の時代なら、ヒットした曲の完全楽譜、全パートの楽譜などもあるのだろうが、当時、コピーをする、という概念もなかったし、どうすれば、耳で聴いた音を自分の演奏に出来るのか、まったく分からなかった。それで、なんとなく、それらしい音を見つけて適当に弾いたり、コードもたぶんこんなものだろう、という感じでやっていたのである。なんとも頼りないバンドの想い出である。ただこの曲の軽快なメロディは、今も僕の想い出の中に生きている。

クリフ・リチャード「コングラッチュレイションズ」

 「ダン・ダ・ダダダダ・ダン、♪コングラッチュレイション~」という歌いだしではじまる(ダン~のところはパーカッションというのかドラムス)。タイトル名からして目出度い曲だと思われるが、その曲調も、それなりに賑やかで祝福をしているかのような曲だ。クリフ・リチャードは、イギリスのポップ歌手。60年から70年にかけて活躍した。特に日本での人気はなかなかのものであった。
 僕はロックだのフォークだのとジャンルが言われる前から(小学校の高学年の頃から)洋楽には親しんできた。その音源の入手はラジオからであった。僕のそばには必ずそのトランジスタラジオがあった。家の手伝いをするときも、夜寝る前も、ほんとによく聴いていた。今のようにカセットテープやCDなどもない時代、くり返しよく聴くことでその曲を覚えることになる。この曲はクリフ・リチャードの初期のヒット曲でラジオでよく聴いた曲だった。
 それから時代は下り、僕は大学を卒業して、学生寮(男子寮)の寮監をしていた。その寮では朝の7時になったら必ず目覚ましがわりに全館放送で鳴る曲があったのだ。それがこのクリフ・リチャードの「コングラッチュレイション」であった。僕の前の寮監さんが選曲して目覚まし用に7時になったらタイマーで音楽がかかるようにしてくれていた。あの「ダダダ~」のところが安眠を破るのだ。朝起きるときに「おめでとう!!」というのもイマイチ意味不明だが、まあ景気の良い曲なので、今日も一日がはじまるんやな~、という感じでみんな起床していたのであろう。
 寮監をしていた年の12月8日、ジョン・レノンが凶弾に倒れた。僕はそのニュースを夜のニュースで知った。大変な事だと思ったが、何をすることも出来なかった。翌朝は早めに起きて朝の目覚まし用のカセットを取り出した。この日だけは、クリフの曲を流すわけにはいかなかった。「ジョンとヨーコのバラード」を流して一人追悼の意を表した。あの時の寮生たちの何人がその配慮を理解してくれていたのだろう。

クロスビー・スティルス&ナッシュ「ティーチ・ユア・チルドレン」

 1970年代、抜群のハーモニーと完成された楽曲の数々で注目を集めたフォーク・ロックのグループ。日本人で最初にこのバンドをコピー(カバー)したのは、ガロというグループ(「学生街の喫茶店」で有名)だったと記憶する。その後、何年かしてアルフィーもコピーしていた。その代表曲がこれだ。たしか『デジャブ』というアルバムにあった。時は映画、音楽が最高に盛り上がっていた。「いちご白書」「イージー・ライダー」なんかにもCS&N(あるいはCSN&Y)の曲が挿入されていた。

ケイト・ブッシュ「嵐ヶ丘」

 ケイト・ブッシュといえばこの「嵐ヶ丘」しか浮かばない。「嵐ヶ丘」しか、と書いたがこの一曲に強烈なインパクトがありすぎて、他にもいろいろ曲を歌っているのに、ケイトと言えばこの曲、というほどの代表曲ではないか。明石家さんまの司会する「恋のからさわぎ」に使われているので、たいていの人は聴いたことがある。僕はこの曲が出たとき(1977年)、なんと奇妙な曲だ、と思った。まるでミュージカルとか、おとぎ話を映画化して、そのサウンド・トラックとして作ったのではないか、と思った。その歌声は、これまたキュートというのか小悪魔的というのか、と思っていたら、この曲の入っているケイト・ブッシュのファースト・アルバムが「天使と小悪魔」なのだ。なんとぴったりのタイトルだろう。ルックスもそんな感じだ。
 この曲は、エミリー・ブロンテの小説「嵐ヶ丘」をモチーフにして作曲しただけあって、ドラマチックな楽曲である。ピアノの最高音部分(堅いきんきんの音)のあと、ケイトのいきなりの歌いだしから入る。ここからして映画的な導入方法ではないか(メロディというよりセリフを話しているような歌い方)。ちょっと身構える。これから何かいやなことが起きるような予感。そして続いてそれを否定するようなゆったりとしたサビの叙情的なメロディライン。曲の後半は、この叙情的なメロディをケイトのバラード(アドリブっぽい)とギターソロが絡む。映画「ハリーポッター」にでも使えばぴったりなのではないだろうか。

 デビュー以降、けっこうな枚数のアルバムを出している。音楽評論家、渋谷陽一の解説によると「彼女はイギリスのお嬢さんで、財力のある家庭に育ち、大きな才能をもち、かつまた人生の暗くつらい局面を生きぬくことを強いられることなく、自らの観念性、少女性を温室の中で純粋培養されていく。~」ということが、その音楽性の基盤になっていると。そして日本人アーティストとして共通するキャラクターを持っているのが中島みゆき、だと。・・・そうかなぁ?

ザ・コアーズ「ランナウェイ」

 以前、休日の朝、家で作業をしながらCSの音楽番組を流していた(映像を見るというより音楽を聴くという目的で)。洋楽のビデオ・クリップの特集で、朝の番組らしくおとなしめの曲が流れていた。なにげなく聴いていると、うん?と思うほどの美しいメロディが流れてきた。女性が3人(そのうちの一人はヴァイオリン)と男性1人のグループで、しかもその女性3人とも美人ぞろい(僕は美人アーティストにめっぽう弱い)。そしてこの曲、よくラジオで聴くな、と思った(いやCMか・・・後でわかったことだがノエビア化粧品のCMに使われていたとか、どうりで・・・)。ビデオ・クリップの最後にクレジットが出るので、最近とんと視力が弱ってきた僕は、思わずテレビの前に駆け寄った。
 ザ・コアーズ(The Corrs)「ランナウェイ」という曲だった。メンバーは、Andrea Corr、 Caroline Corr、 Sharon Corr、 Jim Corrの4人。みんな「Corrさん」、つまり兄妹で「The Corrs」となっているようだ。アイルランド出身で1995年にデビュー。楽器担当は、兄のジム・コアーがギターとキーボード担当、長女のシャロンがヴァイオリン担当、次女のキャロラインがドラムス担当、三女アンドレアがヴォーカルとホイッスル担当。伝統的なケルト音楽をミックスしたアイリッシュ・ミュージック・グループだということである。長い歴史のある「MTVアンプラグド」というテレビ番組の最終回を飾った(つまり最後を務めるにふさわしいグループとして白羽の矢が当たったという)ことで、話題になった。
 コアーズ兄妹の故郷は、アイルランドの首都ダブリンから80キロメートルほど北にある海岸沿いのダンドークという町だという。ここにはアイルランドの名産黒ビール(ギネス・ビール)の工場があり、自然豊かな土地のようだ。ここで音楽好きな両親によって育てられたのである。アイルランドは、U2やエンヤといった個性的かつ抒情的なサウンドを出すミュージシャンを送り出した土地柄であり、国民的にも音楽好きな民族として知られている。
 1995年に出されたザ・コアーズのファーストアルバム『遥かなる想い』は、世界で700万枚のセールスを記録したという。続いて『トーク・オン・コーナーズ』はイギリスだけで300万枚の売り上げがあった。2002年には、イギリスのエリザベス女王在位50周年記念コンサートでポール・マッカートニーやエリック・クラプトンらとともに、ビートルズの「ザ・ロング・アンド・ワインディング・ロード」を披露したという。
 このグループは、全員が兄妹という点もユニークだが、兄妹ならではのハーモニーの相性の良さ、メロディラインの繊細さで群を抜いている(ケルト音楽を~とされているが、あまり民族音楽という印象は無い、むしろ親しみやすいメロディは万人に好感を持たれるものと思える)。しかも美人姉妹ときている。僕はこのビデオ・クリップを見た日の午後、ブック・オフ(本とCDのリサイクル・ショップ)に置いてないものか、出かけていったのである。果たして、そのCDは「C」の棚にあった。『ベスト・オブ・コアーズ』と題した輸入盤であったが、新譜に比べれば安い。迷わず購入。輸入盤にしては、付属のジャケット、クレジットに加えて写真などもたくさん掲載されている。それからしばらくはこの曲を聴き続けている。聴いていると心が癒される感じである。  

★さ行

サイモン&ガーファンクル「アメリカ」

 将来に不安を抱いた若い二人が、バスで旅を続けながら、語り合う、という内容で、ここに登場する彼女「キャシー」はポール・サイモンのイギリス時代の恋人の名。当時のポールの心境を物語る秀作だ。
「恋人と一緒にパイを買い、アメリカを探す旅に出よう(要約)」という内容。この曲は、彼らの4枚目のアルバム「ブックエンド」に入っている(1968年の曲)。そんなにヒットはしなかったが、そのシンプルなメロディと詩の内容から、S&Gの代表作と言えるのではないか。この作品はアメリカでの発売から遅れること3年、1971年になり、やっと日本でヒットした。参考にした書籍『洋楽inジャパン』には、ちょうど71年3月にグラミー賞3部門を受賞した後、NHKではS&Gのドキュメンタリーが放送され、そのテーマとして使われたことによる、と書いてある(恐るべしNHKの影響力・・・)。
 この年、東京銀座にマクドナルド第一号店がオープンしたという。いまどきマクド(関西での略称)なんてどこにでもあるが、そのころはまだまだアメリカは遠かった。その数年後には京都にも四条河原町西、藤井大丸一階部分に出来た。タルタルソースの載ったフィレオフィッシュは、田舎者の僕にはとても都会の味がした。「アメリカ人はみんなこんな美味しいもん食べてるやなぁー」なんて思ったものだ。

サイモン&ガーファンクル「早く家に帰りたい/Homeward Bound」

 数年前のニュースで、サイモン&ガーファンクルが再結成し、全米30ヶ所でコンサートをすることが報じられていたことを思い出す。再結成といっても、20数年前にセントラルパークで再結成をしているから、再々結成ということになろうか。現役時代からだと30数年ぶりだ。
 この曲、詞の内容も抒情的だが、メロディもそれに合わせるかのようにしっとりとしていて、しかも後半は、渋めに盛り上がる。アルペジオで弾くベース音は、音階を下っていくメロディになっていて印象的だ。技術的には比較的簡単なのにかっこよく伴奏が出来る曲だ。ポール・サイモンの作品だが、当時のポールの孤独感がよく出ている。「コンサートツアーに向かう途中に駅のベンチに坐って列車を待っている(要約)」という内容。このときの全米ツアーのタイトルは「旧友/old friend」だそうだ。もちろん、S&Gの楽曲から付けたタイトルだが、二人の変わらぬ友情を再確認するコンサートとしての意味合いがあるのだろう。「再結成」の時は、そうそうたるスタジオミュージシャン(STUFF:スティーブ・ガッド、リチャード・ティー等々)をバックにしたがえていたが、今回はどんなメンバーを揃えているんだろう。

サイモン&ガーファンクル「明日に架ける橋」

 数年前、9・11のニューヨークのテロ事件直後、この曲が自主規制で放送されなかったらしい。歌詞の内容からすれば、そういう悲しい出来事の後だからこそ、勇気付けられる歌であるように感じるが。自主規制した放送局は、深読み以上に、あらゆる「言葉」に過敏に反応したのであろう。
「激しい川に架ける橋のように 僕のからだを君のために投げ出そう、友達として(要約)」という内容。
 サイモン&ガーファンクルの代表曲は、なんと言っても映画「卒業」に絡む「サウンドオブサイレンス」「ミセスロビンソン」「スカボローフェア」の3曲、またはそのどれか、となるだろう。映画に使われたインパクトや、彼らのデビュー?を飾るタイミング、演奏がグループのイメージと重なる、等々の理由で代表曲としても異論はないはず。
 しかしその後、多くのアルバムを出し、ヒット曲もあるが、名曲を、となれば迷わずこの「明日に架ける橋」を選ぶだろう。曲の完成度、ピアノアレンジの秀逸さ、ボーカルの素晴らしさ、S&Gの名曲というより、コンポーザー、ポール・サイモンが世に出した20世紀を代表する名曲だと思う。その証拠に、おそらくこれまでかなり多くのミュージシャン(特にボーカリスト)は、この曲をカバーしている(アルバム収録だけではなくコンサートなどでも)。そして特に歌唱力が要求されるだけあって、ただのカバー曲というよりも、それぞれの歌手が自分の歌として丁寧に歌い込んでいるのである。それだけ多くの人々に認められた作品ということである。Like a Bridge Over Troubled Water I will lay me downという歌詞のことろが、とても印象的なバラードであり、曲名の「明日に架ける~」というタイトルも名訳だ。
 僕はギターは多少弾くことは出来るのだが、残念ながらピアノは弾けない。もしピアノが出来れば、絶対に真っ先に弾きたい曲である。高校時代に後輩の男子がこの「明日に架ける橋」をピアノで演奏しているのを目撃した。その時、なんてカッコイイんだろうと思った。鍵盤楽器といえば、男子のバンドでも、必ず女の子が入っていたし、ピアノは女の子が弾くもの、という固定観念があったが、この曲を弾いている男子の姿を見て、その認識は変わった。男が弾けば、かなりカッコイイ、と。そして出来るものなら自分も弾いてみたいと思った。

サイモン&ガーファンクル「サウンド・オブ・サイレンス」

 「イージー・ライダー」と並ぶニューシネマの代表作、映画「卒業」のテーマ曲が、この「サウンド・オブ・サイレンス」だ。訳せば「無音、静寂の音」ということか。僕はギターを弾きはじめていた頃で、あのイントロの部分をたどたどしく練習したものだ。
 この曲、もともとは「水曜日の朝、午前3時」というS&Gのデビューアルバムに収められていたもので、伴奏はギター一本の素朴な曲だった。映画に使われるにあたり、本人達が海外へ出かけて居ない間に、勝手に元曲のマスターテープに、ベースとかドラムスをかぶせ、一気に曲を作り上げてしまった、ということはあまり知られていない。確かに、よく聴くと、なんとなく歌部分と付け加えた伴奏が合っていないような気がする。デジタルマスタリングの現在なら、そんなことは簡単で、しかも自然な曲として仕上がるだろうが、当時は、ドラムス担当の演奏者は、ヘッドホンでS&Gのアコースティックバージョンを聴き取りつつ、叩いていたのであろう。ベーシストもしかり。ただこの曲のすばらしいところは、楽曲以上に、ポール・サイモンとアート・ガーファンクルの息のあったハーモニーではないだろうか。S&Gの曲を他のミュージシャンがカバーすることはあるだろうし、この曲もしかりだが、しかし誰がカバーしようと、原曲を越えるものにはならないだろうな、というのが正直思うところである。

サム・クック「ブリング・イット・オン・ホーム・トゥ・ミー」

 ソウルの始祖、サム・クックがオリジナル(1962年のヒット)だが、この曲、いろんなアーティストがカバーしている。本家のサム・クックのバージョンは、ホーンがベースラインと同じメロディで流れ、単調な伴奏なのだが、やはりR&Bは、ボーカルが命。日本語タイトルは「孤独の叫び」だったと記憶している。
 サム・クックは、1931年、ミシシッピ州クラークスデイルで生まれる。その後シカゴに移り住むが、牧師の父親を持つサムが、ゴスペルの道へ進むのも自然の成り行きであった。ソウル・スターラーズの若手予備軍ハイウェイ・QCズを経て、50年には、リードのR・H・ハリスに変わり、スターラーズに加入。「ワンダフル」、「タッチ・ザ・ヘム・オヴ・ヒズ・ガーメント」といった名曲を残す。その後ソロとなり「ユー・センド・ミー」の大ヒット、「トゥイスティン・ザ・ナイト・アウェイ」、「エイント・ザット・グッド・ニューズ」といった優れたゴスペル・ソウルを生む。そのまま順調な活躍をするところだったのに、1964年、ロス・アンゼルスのモーテルで女主人に撃たれ、この世を去った。享年33才、実に早すぎる死であった。「ブリング・イット・オン・ホーム・トゥ・ミー(=孤独の叫び)」は、そんな彼の悲劇的な終末を暗示するような歌だったのかもしれない。

サム・クック「ワンダフル・ワールド」

 オーティス・レディングとともにR&B、ソウルミュージックの草分け的ボーカリストがサム・クックだ。日本のミュージシャンを当てはめて、志向が似ている歌手として、上田正樹がオーティスなら、柳ジョージがサム・クックといったところか。この曲はこれまたウルフルズが日本語でカバーしているので最近知られるようになったが、1959年(50年以上前)の作。確かサムもオーティスも若くして亡くなっているけれども、この曲のように、いつまでも歌い継がれていく古さを感じない曲がたくさんある。曲自体、よくあるコード進行で、ソウルはどれも同じように聴こえるが、しかし、聴くほどに味があり、演奏しようとしても、なかなかその核心に迫れない、奥の深い曲だ。

サンタナ「ブラック・マジック・ウーマン」

 ラテン・ロックの大御所、カルロス・サンタナは、1969年のウッド・ストック・コンサートで衝撃的なデビューを果たした。デビューアルバム「サンタナ」は同年リリース(わずか3週間で作り上げたファースト・アルバムはサンタナ自身満足のいく内容ではないと思っていた)。翌1970年の2作目となるアルバム「天の守護神」(こちらは第1作目の反省から大物エンジニアを迎え入れサウンド的にも充実した内容となっている)を出し、全米アルバム・チャート第1位を獲得している。「ブラック・マジック・ウーマン」もこのアルバムからのシングル・カットで、日本でも大ヒットした。
 サンタナでのヒットがあまりに有名すぎて、この曲が、実はカバー曲であることはあまり知られていない。今は活動休止状態にあるフリートウッド・マックは、かつては、ピーター・グリーンを中心メンバーとしたブルース・ロックのバンドであった。そのFMの1969年にアメリカ編集盤として出したアルバム「英吉利の薔薇」に収められている。こちらの方は、フリートウッドのドラムスをベースにした地味目なブルースである。
 この「ブラック・マジック・ウーマン」をサンタナは見事に自分のものとして、大ヒットに至らしめたのである。イントロはエキゾチックなオルガンのソロから、静かにサンタナのギターが入る、旋律は全体を通して同じであるが、このイントロ部分は、交響曲でいうところのプロローグ、とでも言うべきか、来るべき間奏での「ブイブイの泣きのギターソロ!!」を想起させるような意味合いが感じられる。長めのイントロのあとは、ボーカルのグレッグ・ローリーの歌が入る。しかし、この歌部分はあくまでもサンタナのギターを際立たせる添え物的存在でしかない。そして圧巻はギター・ソロである。ラテン・パーカッションに乗って、サンタナのリード・ギターが泣くのである。
 サンタナのその後は「哀愁のヨーロッパ」のヒットや、アルバムジャケットに日本人画家(もとイラストレーター)の横尾忠則を起用して話題になったことなどがある。そしてなんといっても近年のビッグニュースとしては、1999年に30周年を記念して制作されたアルバム「スーパー・ナチュラル」が全米アルバム・チャート第1位、2000年の第42回グラミー賞で最優秀アルバム部門を含み、全9部門を独占(史上最多)したことであろう。デビューした愛と平和の祭典、ウッド・ストック・コンサートの精神は、恐らく今もサンタナの音楽に息づいていることであろう。

シェリル・クロウ「Soak Up The Sun」

 2002年4月リリースのアルバム『カモン・カモン』の中の1曲。オリコン洋楽チャートで第1位となったヒット曲。以前、人気テレビ番組の『SMAP X SMAP』に出演し、SMAPのメンバーと歌ったのがこの曲である。シェリル・クロウは、アメリカミズーリ州ケネットにて生まれる。5歳からピアノやオルガンを習い始め、ミズーリ大学で作曲やクラシック・ピアノ、音楽理論を専攻するかたわら、バンドでキーボードを担当し、地元のライヴ・ハウスでローリング・ストーンズやレッド・ツェッペリンのカヴァーを演奏。その後、小学校の音楽講師をしていたが、86年、音楽のキャリア追求のためカリフォルニア州ロサンゼルスに移る。87年、マイケル・ジャクソンのバッド・ツアーにバック・ヴォーカルとして起用され、以後、ドン・ヘンリー、ジョー・コッカー、ロッド・スチュワート等のバック・ヴォーカルへの参加や、エリック・クラプトン等への楽曲提供を経て、90年、A&Mレコードと契約。93年ファースト・アルバム「チューズデイ・ナイト・ミュージック・クラブ」発表、翌年シングル「All I Wanna Do」が全米で大ヒットし、ビルボード誌で最高2位を記録。アルバムも全米で400万枚を超える大ヒットとなり、第37回グラミー賞の最優秀新人賞/年間最優秀レコード/最優秀女性ポップ・ヴォーカル・パフォーマンスの3部門で受賞。以降もグラミー賞の常連アーティストとなる(ちなみに2003年の第44回グラミー賞では、ベスト・フィーメール・ポップ・ヴォーカル・パフォーマンス、ベスト・ポップ・パフォーマンス・バイ・デュオ・オア・グループ・ウィズ・ヴォーカルズ、ベスト・フィーメール・ロック・パフォーマンス、ベスト・ロック・アルバム、ベスト・エンジニア-ド・アルバム、ベスト・カントリー・コラボレーション、という脅威の6部門にノミネート)。
 先に記したように、僕は『SMAP X SMAP』をたまたま見ていたのである。番組の最後あたりで、SMAPがゲストと共演するコーナーがあり、シェリルが出演するので、「All I Wanna Do」あたりを歌うのかと思っていたら、その年にヒットしたこの曲だった。曲名がいまひとつ印象に残らなかったが、なかなか良い曲だと思った。エレクトリック・ギターのイントロもカッコイイし、メリハリのあるアレンジ、そして後半のコーラスは重厚である。  

シカゴ「ロウダウン」

 1969年にデビューしたシカゴは、当初ブラス・ロックが看板であった(「長い夜」などが代表曲)。その後、AORと呼ばれるような、バラード中心の楽曲が多くなっていった。「素直になれなくて」なんて、なかなかの名曲。そんな息の長いシカゴの曲の中でも、この「ロウダウン」は初期のヒット曲(1971年)で、なんと日本語バージョンがある変り種。もちろん英語バージョンもあるが、日本では日本語バージョンがチャートインした。この日本語版の作詞をしているのが、元フォーク・クルセイダースのメンバーで精神科医(数年前まで大学教授)の北山修であった。今となっては、詞を書いた経緯は知る由もないが、フォークの歌手が、ロックのバンドの詞を書くことに、当時、新鮮な印象を持ったことを覚えている。

シーナ・イーストン「9時から5時まで」

 1980年の夏に「モダン・ガール」で大ブレイク。日本でも翌年に大ヒット。オリビア・ニュートンジョンに次ぐ女性アイドル歌手だと騒がれた。オリビアが正統派アイドルなら、シーナはやや尖(とん)がった、自立したアイドルという雰囲気だ。つまりキャリア・ウーマン(ちょっと言い回しが古いですが)という路線か。この9時から5時まで、という曲も、仕事を持ってバリバリと・・・という内容のようだ。軽快なメロディのとても聴きやすい曲である。

ジミー・クリフ「遥かなる河」

 原題は「Many Rivers To Cross」。ジミ―・クリフは、ジャマイカのレゲエミュージシャンだが、こういうバラードの名曲を歌っている。「渡る河は多くあるけれども 私の渡るべき河はどこにだろう(要約)」という内容。人生には、いろいろな道を選ぶべき時に遭遇する。一本の河を順調に下ってきても、あるとき何本かの河に分かれた地点にさしかかる。そのとき、自分はどの河を選択すればよいのか。そんな歌ともとれる。あるいは、人にはいろいろな人との出会いがある。それは多くの河がクロスしている場でもある。それぞれの人がそれぞれの河を渡っていく。自分は孤独だが、この河の様(さま)を見て、これまでの信念を支えに生きていこう。という意味ともとれる。この曲の一節に「独りで生きて」いくと結んではいるが、僕としては、後者、多くの河は、友達の支えの河であると信じたい。

ジミ―・クリフ「ザ・ハーダー・ゼイ・カム」

 夏といえば野外コンサートだが、音楽のジャンルならレゲエだろうか。先に「遥かなる河」について書いたが、この曲も同時期、主題曲として映画化され、ヒットした。イントロ・間奏などで印象的なフレーズ(コードだけの)があり、レゲエのリズムに入っていく。力のこもった曲調である。
 CDが普及する少し前に、レコード会社の企画で、30センチLPレコードを45回転で聴くシリーズが出た。当然、高回転の分、曲数は減る。しかし音が良い、というふれこみだった。両面合わせて2~4曲が精一杯だった。このシリーズには高中正義・小椋佳・ラビなどの顔ぶれがあったが、その中に上田正樹の一枚を見つけ手に入れた。「ザ・セッション」というタイトルで「ハーダー・ゼイ・カム」も収められていた。このLPは上田正樹がボーカルで、演奏は、なんと、フュージョン界というかスタジオミュージシャンの世界的トップ「Staff=スタッフ」が務めていた。ギターにエリック・ゲイル、コーネル・デュプリー、ベースにゴードン・エドワーズ、キーボードにリチャード・ティー、そしてツインドラムスとしてスティーブ・ガッド、クリストファー・パーカー。言いようの無い贅沢なメンバーである。
 これらの面々の演奏で上田正樹は「ハーダ―・ゼイ・カム」の日本語歌詞を歌う。アレンジはジミ―・クリフの曲に比べるとやや軽い目である(フュージョン風)。しかし、この演奏は軽々とコピー出来るようなものではなかった。全員が一流のスタジオミュージシャンならではのハイテクニックなところが随所にみられ、上田正樹のしゃがれた声とスタッフの淡々とした演奏の妙が素晴らしい。またレゲエの泥臭さも少し香りを残して仕上がっている。
 職場の上司がオーディオに凝っていて、一度職場へそのセットを持って来て(もう20数年前)、みんなで好みの曲を聴いてみよう、というイベントをしたことがある。僕は迷わずこの「セッション」を持参し、アルテックのスピーカーから聴くとどうなるのか、針を落としてもらった。果たして、この演奏は目をつむれば、まるでスタジオに居るかのような錯覚に陥ったのである。ジミ―・クリフのバージョンよりも、こちらの曲に思い出が多い。

ジェリー・ウォレス「男の世界」

ジェリー・ウォレス「男の世界」

 黒澤明監督の「7人の侍」をモチーフにした西部劇「荒野の7人」は1960年の映画。その映画に出演していたチャールズ・ブロンソンさんは数年前に亡くなった。日本でこの俳優が有名になったのは「荒野の7人」から10年後、当時「丹頂」の出した男性化粧品「マンダム」のCMに出演してからだろう(そのCMのヒットで社名も「丹頂」から「マンダム」にしたらしい)。そのCMで流れていたのが、カントリー歌手のジェリー・ウォレスの歌っていた「Mandom - Lovers Of The World(男の世界)」である。この曲の日本での大ヒット (1970年シングルチャートで3週連続1位)にもかかわらず、出身のアメリカ国内では、まったく知られていないという。そもそも、旧社名「丹頂」が社運を賭けて、CMとしてアメリカで制作させたもので、俳優のブロンソンとのマッチングも、その際に行なわれたものである。
 この曲が流行したころ、僕は中学生だった。そして大阪で日本で初の万国博覧会があった年である。その年、僕のクラスでは、英語の非常勤の若い先生(女性)がある時期教えてくれていた(今思えば教育実習だったのか単なる非常勤だったのかは分からない)。世代が近いこともあり、僕の友人も含め親しくなっていった。英語の歌などもいろいろ教えてもらった。アメリカで流行しているフォークソング(ジョーン・バエズやPPM)などもレコードを学校へ持ってきて聴かせてくれた。ある意味、この英語の先生のおかげでギターとか洋楽がより身近になった。
 ある時、その先生に「先生の家に遊びに行ってもいいですか?」と言って「いいよ」ということで、行くことになった。友人と相談し、お土産に(普通お菓子でも持っていくのだろうが。そこはお金も持ってない中学生の頭で考える精一杯のアイデアとして)作ったのが、このマンダムのCMソング「男の世界」を吹き込んだテープだった。その時は僕はまだギターが出来なかったので、ギターの出来る友人がこの歌を歌い、ナレーションの部分を僕が担当した。テープレコーダーも友人の近所のおにいさん宅で使わせてもらったオープンリールのものだった。自宅へ行き、お菓子とかコーヒーなどのもてなしを受け、テープを渡して聴いてもらった。そして大いに盛り上がったのである(詳細な記憶は無いがその先生がテープをえらく気に入ってくれたことだけは憶えている)。そのノリで、当時行われていた万博に一緒に行きましょう、ということになった。先生も乗り気でいよいよ日取りを何時にするかということになったのだが、手続き上、担任の先生に了解を取らないとね、ということになり、先生は自宅から担任に電話をしてくるわ、となった。(当時の中学生は、今でもか、校区外へ遊びに行くのに両親か大人の付き添いが義務付けられていた)電話を終え部屋に戻ってこられた先生は「行けへんわ・・・・」と少し悲しそうな顔をされ、そして「今からN先生が来られる・・・」と言った。20分ほどして先生の自宅にすごい剣幕で担任のN先生がやってきた。「おまえらこんなところで何してるんだ、万博、そんなところへは行かさないぞ!」というようなことを言われた。勝手に非常勤の先生の家へ行って、そして校区外の遊びにも誘うなんて、もってのほかだ、ということだった。結局、この万博へ行く話は消えてしまい、その後の学校内でも、その非常勤の先生と話をすることもなくなり(たぶん先生の方が自重され、距離を置くようになったのだろう)、先生との思い出は、このジェリー・ウォレス「男の世界」のテープを作って贈ったことだけになった。あの先生、年齢差からすれば、今はもう還暦間近か、どうされているのだろう、テープとかどうなったのだろう。この曲にはこんな悔しい思い出がある。

ジュディ・コリンズ「青春の光と影」

 英題は「Both Sides,Now」(両サイド、今・・・光と影ということか)。1969年の秋のヒット曲、同時期にゼーガーとエバンスの「西暦2525」がチャートインしている。チェンバロンだろうか、イントロのCFCF~の繰り返しのコード進行、これが全編を通して流れる。格調高い曲だ。
 ギターをはじめた頃、歌ってみたいと思いチャレンジしたのだが、元曲のイメージには程遠い感じであった。ところが同じ曲をジョニ・ミッチェルというアーティストも歌っていて、こちらはギターバージョンである。ジュディの格調高く、フルバンドのに比べると、かなりけだるい感じで、最初聴いたときは、全然よいとは思わなかった。ところが、やはり、耳というのは歳とともに渋い曲を心地よいと感じるようになるものだ。今となってはジョニの方が惹かれるものがある。しかし自身がギターで弾いても同じようにはならない。なかなか簡単そうで難しい曲だ。日本のシンガーもけっこうコンサートなどで取り上げている。たとえば山本潤子とか(声の質が良く似ている)。

ジュディ・コリンズ「アメイジング・グレース」

 先日、ジュディ・コリンズのベストアルバムを買った。「青春の光と影」が収録されているが、このアルバムの最後を飾るのが、この「アメイジング・グレース」である。ゴスペルの代表曲なので、かなり多くのシンガーによって歌われている。日本では、トワ・エ・モアの白鳥英美子などが歌っている。作詞のジョン・ニュートン(John Newton 1725~1807)は元・奴隷船の船長で、後に牧師になった波乱万丈の人だった。この「アメイジング・グレース」の詩に、1760年から1770年の間に曲がつけられ、オルニーの教会の礼拝で歌われていたようだが、現在のメロディとは違うようである。

ショッキング・ブルー「悲しき鉄道員」

 1971年1月のオリコンのチャートでは1位にマッシュマッカーンの「霧の中の二人」、2位がこのショッキング・ブルーの「悲しき鉄道員」。ちなみに3位はマンダムのCMソング、ジェリー・ウォレスの「男の世界」。ショッキング・ブルーはオランダのグループで1970年に出た「ヴィーナス」は全米トップになっている。日本でもヒットし、この曲はバナナラマや長山洋子などのカバーで有名である。その後は世界的なヒットには恵まれなかったのだが、日本での事情は少々違っていた。「ヴィーナス」のヒット以降、「マイティー・ジョー」「明日に向う道」そしてこの「悲しき鉄道員」と立て続けにヒットしている。「悲しき」というタイトルではその後の「悲しき恋心」「悲しきハプニング」なども、そこそこヒットしている。
 全米を始めとして本国オランダでの一発屋の評価とは裏腹に日本のみで、なにゆえにこれほど受け入れられたのであろうか。その鍵はここで挙げた「悲しき鉄道員」にあると思う。「ヴィーナス」は大ヒットはしているものの、楽曲的には同じコード進行の繰り返し、ノリは良いが、やや変化に乏しい面がある。対してこの曲は、より凝った作りをしている。ギターのポロロン~というイントロからドラムスが入り、never mary railroad man~というサビのメロディは、日本人好みな哀愁を帯びた雰囲気がある。ボーカルの女性の声質も合っている。結局3年間ほどの間で10曲ものヒットを日本で出し、解散してしまったようだ。

ジョン・レノン「ゴッド」

 この曲は、1970年、ビートルズを離れたレノンが、過去のしがらみから解放され、自身の姿を見つめ直す、といったコンセプトで作られたアルバム『ジョンの魂(原題は「John Lennon」)』に収められている。当然、この「ゴッド」にもそのコンセプトは生かされている。「ヒットラーも、キリストも、ケネディーも、ブッダも・・・、信じない、自分の信念だけを信じる(要約)」といった内容。日本人的な感覚からすれば「神」という言葉は、割と一般的に使用されており、あまり違和感はない。実際、「神様お願い」「神様が降りてくる」といった曲も出回っている。また「神の手」とか「神もホトケも無い」といったように比ゆ的に使うことも多い。しかし西洋圏の人々にとって、軽々しく「神」の名を使うというのは、とても大きな勇気と決断があったものと思われる。 この曲についてジョンは「自分がこれまで信じていたものをすべて否定する気持ちで書いた」「人のために芸をするセイウチであったビートルズ時代の自分とは違って、本来の自分を取り戻そうともがいている自分の姿が、そのままシンプルに歌となっているからだ」と言っている。歌詞の内容を見れば一目瞭然である。しかもポールに対しての皮肉ともとれる一節もある。楽曲としての評価であるが、詞の過激さとは正反対に、前段が美しいバラード、後段がソウルフルでメロディアスな繰り返し(I don't believe in~の箇所)になっている。とても印象深い曲である。

ジョン・レノン/ハッピー・クリスマス (War Is Over)

 解説は不要だろう。そして「イマジン」とともに平和のメッセージを盛り込んだジョン・レノンの1971年の名曲。ニューヨークのテロから数年が過ぎ、報復としてのアフガニスタンへの空爆、イラクとの新たな対峙。そして、毎年クリスマスはやってくる。日本の仏教信者であっても、クリスマスは、子供の頃から嬉しい日だったし、大人になった今は、宗教を越えた平和希求の日として定着しているように思う。
「今宵はクリスマス みんな 楽しんでいるかい」という内容。この「ハッピー・クリスマス」が発表された時、シングル盤の曲名(タイトル)は「戦争は終わった」であった。ところが、その後、間を置かず「ハッピー・クリスマス」と変更になり(同じジャケットデザインで)、そしてその後またまたアルバム(ベスト盤)などでのクレジットには、この「ハッピー・クリスマス(戦争は終わった)」というタイトルがつけられた、という。この曲の発表される2年前には、ジョンとヨーコは、「WAR IS OVER」というパフォーマンスを行った。時は未だベトナム戦争が続いており、泥沼化の様相を呈していた。その時期に、こういったパフォーマンスをし、反戦の歌を世に出したのである。実際にベトナム戦争が終わったのは、この曲が発表された4年後、1975年4月30日であった。
 この曲の冒頭に、ジョンとヨーコの声で「ハッピー・クリスマス、キョーコ(→小野洋子の声)」「ハッピー・クリスマス、ジュリアン(→ジョンの声)」というセリフが入っている。キョーコというのは、小野洋子の初婚時の娘の名前であり、ジュリアンは、ご存知、ジョン・レノンの前の奥さんとの子で歌手のジュリアン・レノンのことである。それぞれが、その子供たちに向けて「メリー・クリスマス」を言っているわけだ。(1971年の発表当時は、まだ、そういう過去を引きずっていたということだろう) ところが時代が経過し、ジョンも天国の人となって以降、ジョンのベストアルバムなどの訳詞には「ハッピー・クリスマス、ヨーコ」「ハッピー・クリスマス、ジョン」と記載されているものもあるという。自分で自分に言うというのも変な話だが、そのような誤りも起るほど、年数の経ったということかもしれない。
 毎年クリスマスのシーズンになると、ラジオではかなりの頻度で、この曲が流れる。(山下達郎・ワムなどとともに)クリスマス・ソングであることに間違いはないが、やはり、この歌詞からは、反戦歌としての意味合いが大きいことを感じるし、忘れてはいけないものだと思う。

ジョン・レノン「ジェラス・ガイ」

 ジョン・レノンのバラードの中でも秀逸な作品だ。メロディが素晴らしい。なんとも言えない叙情がある。聴いているとイギリスの片田舎の風景が浮かんでくる(口笛のところもいい)。「君を傷つけるつもりではなかった、僕はただ嫉妬深いだけなんだ(要約)」という内容。この曲はジョンのアルバム「イマジン」に入っているが、作られたのはビートルズが「レット・イット・ビー」を出した頃のようである。原題は「Child Of Nature」というらしい。嫉妬深い自身は子供のようだ、という意味だろうか。ロッド・スチュワートもカバーしているし、結構いろいろなミュージシャンにも取り上げられている。一応、僕の歌えるレパートリーに入っている。

ジョン・レノン「イマジン」

 僕のへたくそボーカルのバンドで最後(か、その前)に歌う曲。バンド活動は結構長くやってきたが、今のメンバーとは、この曲は定着している。コードも簡単だし、演奏もあまり複雑ではない。洋楽曲を僕らが歌う際の「翻訳」にも苦労しない。また聴いている人も英語を少し勉強した人なら発音さえ気をつければ理解してくれる。歌うものとしても、その心が伝わる曲ということで感情移入しやすい。「僕を空想家と思うかもしれない、想像してごらん すべての人々が平和に暮らしていることを」という内容。後世に残る名曲のひとつだと思う。

ジョンレノン「スタンド・バイ・ミー」

 ジョン・レノンの命日は12月8日。僕の親父らの世代から言わせるとこの日は開戦記念日、ハワイの真珠湾へ日本海軍が急襲した日だ。しかし我々の世代にとっては約30年前のニューヨーク、ダコタ・アパートでの出来事の方が大きな事件だ。例年、その関連イベントが埼玉(レノン・ミュージアムのある埼玉スーパー・アリーナ→現在は日本武道館)で開催されている。今日はとっておきの曲について書く。「スタンド・バイ・ミー」だ。
 洋楽好き、洋画好きで、この曲を知らない人はいないだろう。またロックやブルースのバンドを経験した人は、そのコード進行など、空で弾くことが出来るだろう。ある音楽評論家は、ポップ、ロック、ソウル史上最高の名曲、と言う。「夜が垂れ込めあたりが暗くなっても、いつも僕の傍に居ておくれ(要約)」という内容。ソウル、ドゥーワップのボーカルグループであるドリフターズ(8時だよ全員集合の方ではない)の一員であった、ベン・E・キングが歌っているのがオリジナルである。このバージョンは映画「スタンド・バイ・ミー」のテーマ曲になっている。1986年に、スティーブン・キング原作の短編小説をロブ・ライナー監督が映画化した。少年期のひと夏の冒険旅行(実は死体探しの旅)を軸に、それぞれの少年とその家族にまつわる出来事(回想)を綴っていて、全米で2週間のトップランキングを記録した(同時期に「トップガン」「エイリアン2」など大作のあった頃にもかかわらず)。テレビの洋画劇場などでも何度も放映されている。ストーリーはどうということもないのに、主演の少年たち(実際は一人の中年男性が過去を回想するという設定になっている)の人生模様が物悲しく、哀れで、少しユーモラスで、感動する。これはひとえに監督や脚本家の力量によるところが大であろう(どんな短いストーリーであっても脚本と演出によって素晴らしい作品に仕上がるものだ)。ちなみに、スティーブン・キングの原作は「The Bodie」と言い、映画「スタンド・バイ・ミー」というタイトルと、曲「スタンド・バイ・ミー」は、その原作の中の「おれから離れるなよ、ゴーディ、そばにいてくれよ」という台詞からのこじつけ、だということである(曲での意図は恋人に対する思い、ということだが、映画では友情ということになる)。
 楽曲としては、ベン・E・キングのバージョンよりもジョン・レノンの方がヒットしている。R&Bの名曲やロックンロールのヒット曲をカバーしたジョンのアルバム「ロックンロール」に収められている。そのアルバムでは1曲目の「ビー・バップ・ア・ルーラ」の軽快な曲の後、かなり短い間をおいて、「スタンド・バイ・ミー」が2曲目、アコースティックギターのストロークで続いていく。この前の曲との絶妙の「間(ま)」も、アルバムの中で聴く「スタンド・バイ・ミー」の存在感を示す曲順になっているのではないかと思う。ベン・E・キングの方は、ストリングス主体の緩やかな伴奏であるが、ジョンの方は、ツー・コーラスまではギターストロークでの伴奏で、サビの「~DaringDaring~」からベース、ドラムが入り急に賑やかになる。さらにスライド・ギターの間奏が入り、サビで盛り上がり、そしてフェイドアウトで終わる。ジョン・レノンの「ライブ・イン・トロント」のバージョンでは、御大エリック・クラプトンがリード・ギターを務めている。
 この曲は、もう数え上げればきりがないほどの多くのミュージシャンがカバーしている。そしてロックやR&B系のアマチュアバンド(プロでもジョイントなど)のコンサートで、最後に合同演奏(いわゆるセッション)の曲として選ばれることが多い(「それでは最後にスタンド・バイ・ミーを~」という語りを何度聞いたことであろう)。その理由は、先にも述べたように、音楽史上での知名度が高いということと、コード進行が、ソウル系音楽によくある循環コード(同じコードの繰り返し)である点、つまり曲のキーさえ聞けば、誰でもがこの曲に参加することが出来る点にあると思う。
 「A-F#m-D-E-A」ギターでもピアノでもよい、このコード進行を弾いてみると即、スタンド・バイ・ミーのセッションを始めることが出来る(どんな初心者でもOKだ)。そんな入り易さが、この曲の人気の理由だろう。僕もこの曲は、自分のバンドで一番多く演奏している曲である。ベン・E・キングのキーがGに対して、ジョン・レノンのキーはAである。技術的にはGのコードが簡単だが、僕の声はAに合っているし、とにかくジョンが好きなので、このバージョンが多い。そもそもこの曲を知ったのも、ジョンの曲を聴いて、これはぜひとも演奏したい、歌ってみたい、と思ったからである。その結果、この曲は大抵アンコール曲として最後に残しておくようになった。つまり多くのジョイント・コンサートで見かける「それでは最後にスタンド~」と同じく、他のバンドのメンバーも一緒にセッションする、という運びになった。そして、上記のコードに合わせて、いろんな人がソロを取る。これがまたおもしろいのである。その人なりに考えたフレーズ、まったくのアドリブ、ちょっとコードと合わないメロディ、というように個性が出る。それを楽しむのもセッションの面白さであり、「スタンド・バイ・ミー」はその最適なる楽曲なのである。
 僕は、この「スタンド・バイ・ミー」をカバーしているアーティストのCDがあれば、もう発作的に買う。ジョン・レノンもカバーしたこの名曲を、このアーティストはどんなアレンジをして演奏するのだろうか、と考えると、買わずにはおれないのである(実際それぞれのアーティストの個性がこの曲ほど表れるものはない、そうなるべき曲なのである)。僕はそれほどこの曲に惚れている。

 

ジェイムズ・コットン・バンド「コットン・ブギー」

ジェイムズ・コットン・バンド「コットン・ブギー」00

 京都のライブハウスといえば、いまでこそJAZZ専門のところからロック・フォーク系までさまざまあるが、1980年前後は、ブルースバンドが常連で出演していた「拾得(じっとく)」「磔磔(たくたく)」「サーカス・サーカス」の3つが基本だった。前の2つは酒蔵を改造して店にしているし、サーカスはビルの地下にある店だった。そんな店構えだったので、やはり京都といえば「拾得」と「磔磔」である。
 「拾得」は丸太町智恵光院通りの近くにあり、少し繁華街からは離れている。主にアマチュアバンドの登竜門、といった趣があったが、それはここのマスター、テリーさんの志向によるところが大きい。ただブルース系のバンドは、プロでもよく出演していた。
 「磔磔」は四条烏丸のビジネス街の近くにある。立地条件の良さを反映して、けっこうメジャーなアーティストが来る。そして「○○~Live at TAKUTAKU」というライブ盤も多い。また本場アメリカのブルースマンが日本で公演をするときは、東京、というビッグな都市ではなく「Kyoto,takutaku」と指名してくるという。それほどブルースマンに知れたところなのである。
 そんな「磔磔」で1985年12月、ファンク・ブルースと称されたブルース・ハープ(=ハーモニカ)の名手、ジェイムス・コットンのライブがあった。こういうビッグなアーティストの時は、店内は少しのテーブル席と畳のスペース以外、すべてイス席になり、さらにイス席の後ろは立ち見席となる。200人くらい入れば、かなり満杯という感じである。「磔磔」の控え室は酒蔵を改造した店の2階にある。そこからステージへ行くには後ろの方の階段を下りて、目一杯になった客席をかき分けて進むことになる。なので、はじめはなんとかステージまで行くことが出来ても、ライブが盛り上がってエンディングになっても客が控え室へ帰してくれない、といったことや、一旦なんとか戻ってもアンコールでステージまで戻ることが出来ない、といったこともしょっちゅうあった。この時のジェイムス・コットンは、ブギ―のリズム、アップテンポな曲をたくさん披露してくれて、聴いているだけで体が上下に揺れ、踊りたくなってきたものだ。

J.D.サウザー「ユア・オンリー・ロンリー」

 イーグルスやジヤクソン・ブラウンなどのアメリカのウエストコースト・サウンドの代表曲だ。夏向けのコンピレーションアルバム(といっても少し古い選曲がメインになったもの)にも、必ずといってよいほど収められている。スローテンポで、メロディは単調だが、ピアノのアレンジが聴くものを魅了する(と僕は思っている)。聴いていて心が和らぐ。ゆったりとした気分で聴きたい曲だ。以前、この曲をバンドでやったことがあるが、メロディが単調な分、なかなか本物には近づけなかった。当時のバンドには、キーボードを入れてはいたが、原曲のようなアレンジにはならなかった。

ジェファーソン・エアプレイン「あなただけを」

 1960年代の中頃、アメリカのサンフランシスコを中心に活躍していたのがこのバンドであった。同じ西海岸でもロスアンジェルスは、中央志向が強くメジャーデビューを狙っているバンドやミュージシャンが多く居た。それに対してシスコの方はわが道を行く自由奔放なバンドが多かった。
 この曲を聴いたのはかなり昔のことである。たぶん小学生から中学生になるころのことであろうか。ラジオフリークだった僕は結構洋楽に目覚めていた。どんなバンドなのか、どんな内容を歌っているのか、ろくに分かりもせず、その流れてくる音楽にただただ耳を傾けていたのだ。「おんちゅ、にいさんばでつらーぶ」という語感で憶えていた歌詞が、実際は「Wont you need somebody to love~」という英語だったことが理解出来たのは、ずっとあとのことである。女性ボーカルで、全体として迫ってくるような、鬼気とした雰囲気を漂わせた楽曲だが、このなんともいえない感じが子供心に「いい曲だ」という印象を持つに至ったのだろう。いま聴いてもおもしろい構成の曲と思う。自由とかヒッピーの似合うシスコの町を彷彿させる曲だ。このバンドはその後メンバーチェンジを繰り返してグループ名もジェファーソン・スターシップというバンドになった。

ジャーニー「Any Way You Want It(お気に召すまま)」

 ラテン・ロックのサンタナに若干19歳でギタリストとして抜擢された天才ギタリスト、ニール・ショーンを中心に1975年に結成されたのが、ジャーニーである。そのアルバムには次のような作品がある。
 1975年『JOURNEY-宇宙への旅立ち』・1976年『LOOK INTO THE FUTUREー未来への招待状』・1978年『INFINITY』・1979年『EVOLUTION』・1980年『DEPARTURE』・1981年『CAPTURED-ライヴ・エナジー』・1981年『ESCAPE』・1983年『FRONTERS』・1986年『RAISED ON RADIOー時を駆けて』・1996年『TRIAL BY FIRE』・2000年『ARRIVAL』と、なかなか多い。しかも完成度の高いものばかりだ。TOTOと同時期に活躍し、TOTO、ボストンなどと同じように、完璧なサウンド作りに「産業ロック」の部類に入れられている。ロックのジャンルとしては、プログレッシブ~ハードロック、といったところだが、1980年のアルバム『DEPARTURE』の1曲目、この「Any Way You Want It(お気に召すまま)」は、とてもポップな仕上がりになっている。メロディも分かりやすく、ハモリもイイ。しかもメリハリの効いた演奏だ。ジャーニーらしからぬ1曲とされているが、実際シングルは、全米チャートの23位となっている。また精力的にコンサート活動を行なっており、この曲は常に最後あたりに演奏されるらしい。したがって、やはりこの曲は彼らを代表する曲と言えよう。ちなみに日本テレビ系列の朝の情報番組「スッキリ!!」のテーマソングになっている。

 

ジャクソン・ブラウン「ヒア・カム・ゾーズ・ティアーズ・アゲイン」

 アメリカのウェスト・コースト・サウンドを代表するシンガーソングライター。1970年代中期に活躍していた。もともとフォーク・シンガーとしてボブ・ディランズ・チルドレン(ディランに影響を受けたミュージシャン、子供達という意味)と言われていた。それがプロデューサーのロック色を強めたアルバム制作により、どちらかというと、イーグルスなどと同じグループにカテゴライズされている。一番のヒットアルバムは「プリテンダー」とされているようだ。
 ジャクソン・ブラウンは、男の僕が言うのも何だが、カッコイイし、ルックスも良い。本物は見たことはないが、少なくともジャケットには、その男前ぶりが出ている。スタイルもベスト・ジーニストにでも選ばれそうな感じだ。この「ヒア・カム・ゾーズ・ティアーズ・アゲイン」は、その「プリテンダー」よりも前、初期の作品だ。20年ほど前、関西で行われていた「8・8ロックディ」というアマチュアバンドのコンテストで、京都代表のクルセママというバンドが演奏しているのを聴いたのが最初だった。なんとなく間延びしたような曲調ではあるが、要所要所に締めどころのようなものがあり、なかなかいい感じの曲だ。(これをアマチュアバンドがやろうとしても結構難しいだろうなと今になって思う)またカッコ良かったのだ。

ジャクソン・ブラウン「ザ・ロード・アウト」~「ステイ」

 ジャクソン・ブラウンの5枚目のライブ・アルバム『孤独なランナー』の最後に収められた2曲。2曲だが、ほぼメドレーのような形で演奏されている。このセットの演奏は、ほぼライブでの彼の定番となっており、先日、日本での公演の際にも演奏し、聴衆を盛り上げたらしい(ジャクソン・ブラウンのファンによる掲示板で確認した情報)。僕はCDでしか、この曲を聴いたことはないが、聴いていてなんだか気分が高まるな、と思う。それでいて安心して聴ける、とてもGoodな曲である。
 このジャクソン・ブラウンのベストを先日買った。初期のものから最新のものまで、目一杯収録されていて、この「ステイ」も入っていた。ところが「ザ・ロード・アウト」と対ではなく、独立した曲として収録されている。2曲の間をさりげなくフェイド・インしながら収めてある。いい曲だが、少し残念な選曲?だ。
 彼は、1971年設立のアサイラム・レコードの代表的なミュージシャンである。このレーベルのアーティストとして、イーグルス、リンダ・ロンシュタット、J.D.サウザー、ジョニ・ミッチェルなどがいて、まさにアメリカン・ロック=ウェスト・コースト・サウンドの代表的なレーベルであった。その中でもジャクソン・ブラウンは「70年代最高の詩人」「ウエストコーストの吟遊詩人」などと呼ばれている。イーグルスのデビュー・シングル「テイク・イッツ・イージー」も彼の作品。人生についての真摯な視線、その詩をアコースティックなサウンドに乗せて曲作りをしている。日本でも信奉するアーティストは多く、代表的なミュージシャンに浜田省吾がいる。確かに浜田省吾の楽曲の中にはジャクソン・ブラウンの曲調とそっくりな作品が多く見られる。
3枚目のアルバム『Late For The Sky』は70年代のロック史上に残る名作と言われている。
 数年前に買った『ザ・ベスト・オブ・ジャクソン・ブラウン』に日本のファンに対して、また自身の音楽に対する姿勢、のような内容でメッセージが書かれていたので以下に引用しておく。
「僕の住むところからこの世界の反対側に、僕の歌を知っている人々がいるのだということを、不思議でそして素晴らしいことだと、いつもずっと感じてきた。僕が日本から帰ってくると、よく友人達がこう尋ねる。「あちらの人達は、君が何を歌おうとしてるのか理解しているのかい?」僕は彼らにこう答える。「ああ、わかってると思う。たとえ中にはあまり英語を話せない人達がいるとしても、日本のファンは、歌について時間をかけてできる限りすべてをわかろうとしてくれているんだ。」
 歌の半分は僕から出てくるものであるけれど、残りの半分は聴き手が歌を聴いたときに、聴く人の心の中で生まれるものなんだ。歌というものは、そうして世界のひとりひとりのものとなって、僕たちを結びつけてくれる。僕は日本にファンがいてくれることをとても幸運に思う。つまり、日本でツアーを行うことができて、僕らのふたつの世界の間にある、不思議でとても現実的な違いだとか、僕らが共通に抱えている様々なことなどを、経験することができるということだ。僕は、人々のハート(heart)は世界中どこでも同じであると思う。音楽は、それを知ることができる方法の、ひとつなのだ。>>ジャクソン・ブラウン」

ジョーン・バエズ「勝利を我らに」

 ボブ・ディランが初めて大衆の前に姿をあらわしたコンサート、たぶんウッド・ストック・コンサートで彼を紹介したのがジョーン・バエズだったと記憶する。だからディランよりも先輩格になるのだが、彼女の名前は、今の人々からは忘れられているのではないだろうか。「風に吹かれて」「フォーチュン」「ドナドナ」などを歌って、1960年代のフォークといえば、この人、という存在であった。ちなみにその日本版シンガーが森山良子と言われていた。
 ジョーン・バエズを知ったのは、中学生のときだった。教育実習の先生(大学生)が、英語の時間に持参したレコードを聴かせてくれたのが、この「勝利を我らに」だった。We Shall Over Come という歌詞が連呼される、とても力強い曲だった。いっぺんにこの曲が好きになり、何度も鼻歌で歌うほどほれ込んだ。そしてギターを弾くきっかけにもなった。
 中学2年生か3年生の時だったのだろう、僕が赤・白の2組に分かれた体育祭の応援団になったとき(どっちの組かはもう忘れた)、迷わずこの「We Shall Over Come 」を応援歌にして、みんなに歌唱指導をした恥ずかしい記憶がよみがえる。もともとは労働者の階級闘争の勝利を願った、まあいわば暗いテーマの歌だったのだろうが、そんなことは中学生の僕にはまだ理解するところではなかった。歌の題名(勝利)とメロディの力強さが、応援歌に合っていると思ったのである。また英語の歌を使ったことで、ちょっといままでにはないだろう、という斬新さと自己満足もあったのだろう。今考えるとやることがダサくて恥ずかしい思い出ではあるが、初々しい純な心意気もあったのだと思う。

 

ジリオラ・チンクエッティ「雨」

 ずいぶん以前に、自動車のCMソングに使われていた。今思えば歌っている「チンクエッティ」という人の名前もかなり不思議な語感がある。サッカーのイタリアチームに「トッティー」というFWの選手がいたが、そのお姉さん、という感じか。ということで、この曲、イタリア生まれである。今もあるのか分からないが、昔、サン・レモ音楽祭というのがあり、ジリオラ・チンクエッティさんも毎年出ていた。他にも~デ・バリさんとか、イタリアっぽい名前の歌手が優勝目指して参加したのであろう。この音楽祭のことを知っているのは、またまた古い話になるが、FMで毎週60分の番組があり、僕はこの番組を習慣のように聴いていた。ジャンルとしてはカンツォーネということになるのだろうが、サン・レモに出てくる音楽には結構ポピュラーな曲が多かった。メロディとかも日本人好みだと、自分では思っていた。特にバラード曲。チンクエッティの曲ですごく好きなバラードがあったが、曲名が思い出せない。
 この「雨」は、どちらかというとロック調である。その後か前に出ている「つばめのように」という曲もロック調かもしれない。だれもこれをカンツォーネとは言わないかもしれない。日本では、この2曲は結構ヒットした。その関係でCMにも使われたのであろう。もう四半世紀前の曲になるだろう。日本のジメジメした梅雨の雨というより、ドサっと降ってカラっと晴れるタイプの「雨」か。チンクエッティさん、今も元気なんだろうか。流行していた頃は、若くてすごい美人だった(スカーフとか被ったジャケットを覚えている)。

シルヴィ・バルタン「哀しみのシンフォニー」

 原題が「CARO MOZART(イタリア語)」のとおりクラシック、モーツァルトの「交響曲第40番」の第1楽章をベースに、シルヴィ・バルタンの歌が入る。1972年のヒット。シルヴィはフランスの歌手だが、この曲は珍しくイタリア語で歌っている。しかも淡々と、少しけだるい歌い方で。
 クラシックをモチーフにしたポピュラー(ロック)音楽は結構ある。ある旋律をそのままパクッた(言葉は悪いが、著作権法上、クラシック音楽はパブリックドメインになっている)もの、そのイメージを作品に取り上げたもの、イントロや間奏などワンポイントで使うもの等々。ところが、このシルヴィ・バルタン「悲しみのシンフォニー」は、「交響曲第40番」そのままなのである。そのまま、というのはメロディということではなく、演奏そのものも、なのである。恐らく、レコーディングの段階では、オーケストラなども揃えて演奏し、歌っているはずであるが、聴いた限りでは、例えばカラヤン指揮、○○交響楽団演奏のテープに合わせて、歌を入れた、という感じなのである。ただ、楽器としては、ドラムスが効果的に追加され、ただのクラシックの演奏ではない、よりポピュラーでリズミカルな楽曲に仕上がっている。そういうオーケストラのクラシックとポピュラー歌手の歌が、うまく調和している。どちらも全面に出ることなく、それぞれの良さが出ている。いい曲だ。

シルヴィ・バルタン「あなたのとりこ」

 テレビCMでよく流れている曲である。CDショップにもタイアップの関係か、ベスト盤が並んでいる。そのベスト盤を数年前に購入した。
 この「あなたのとりこ」は僕が中学生の時に、自身購入2枚目のレコード、確かメリー・ホプキンのシングルを買って、その後すぐくらいに買っている。軽快でノリの良いイントロから、ヨーロッパのクセのあるメロディライン、ポップスであるのに、演奏が大楽団のエネルギッシュな迫り方をしている。感受性の強い中学生にとっては「これはずごい曲だ、1枚は手に入れるべきだ」という気持ちになったのだと思う。ただし歌詞はフランス語なのでまったくわからないし、そもそも「あなたのとりこ(貴方の虜)」なんて、今思えばなんと意味深なタイトルだろう。中学生はその意味を妄想することなく、ひらがなのあつまり程度に感じていたのだろう。そのEPレコードは我が家の押入れのぐっと奥の箱の中に今もあるはずだが、ジャケットが二つ折りになっていて、広げるとシルヴィ・バルタンの全体のポスターのようになっていた。
 シルヴィが日本で有名になったのはこの曲ではなく、それ以前に映画の主題歌に使われた「アイドルを探せ」である。けだるい歌いだしから始まり、サビで入る弦楽器の合いの手が印象的なフランス風のおしゃれで、なぜか気になる曲だった。このときのジャケットは、シルヴィの帽子をかぶり頬杖をついた正面の写真が使われていて、数年前に購入したベストのCDにもこの写真が使われている。まさに誰が(まあ概ね男性が)見ても「キュート!」と言うだろうアイドルの顔だった。そんな異国のアイドルが放った第二弾を買ったのは当然の結果だったのかもしれない。
 ただ「あなたのとりこ」のジャケット写真は、全身が写ったポスターもどきのサービスぶりだったが、「アイドルを探せ」の頬杖顔に比べるとやや「おばちゃんが入ってる」感じであった。そのあたりの事情は、今回購入したベストCDのライナーノートに書いてあった。
 シルヴィがかつて自動車事故をして大怪我をしたことは昔、聞いたことがあった。この「あなたのとりこ」は、ケガからの復帰第1弾だったらしい。どうりで笑顔に、ややムリな雰囲気が漂っていたような記憶がある。同じくライナーノートによると、代表作の「アイドルを探せ」が日本でヒットしたのは1964年だそうだ。僕が10代にも届かない頃のことだ。その頃の写真が仮に20歳だったとしても、この2008年の今は70歳に近い年齢のはずであるが、あまり「今」のシルヴィを見たくはない(が、その歳でもイイ女なら見てみたい気持ちもあるにはある、複雑)。

シンディ・ローパー「タイム・アフター・タイム」

 シンディは1953年ニューヨーク生まれ。1983年にアルバム『シーズ・ソー・アンユージュアル』でデビュー(このアルバム、全世界で800万枚の売り上げとなった)。そこからシングルカットされた「Girls Just Want To Have Fun」が全米ヒットチャートの2位。続いてこの「Time After Time」は全米ナンバーワンとなる。シンディをプロデュースし、デビューさせたのは、デビッド・ウルフ。そして名実ともにシンディのパートナーとして約10年間、マネージャーをつとめたのである。そのファースト・アルバムからのセカンド・シングルが、シンディをして「二度とこの曲を超える歌は書けない」とまで言わしめた名曲「タイム・アフター・タイム」である。「私は待っているわ 何度も~」といった内容。
 スローなバラードだが、メロディが渋い、そしてサビの部分がさりげなく全体を盛り上げている。この曲はいろいろなアーティストがカバーしている。CD化されているか不明だが、日本のアーティストでもチャーが取り上げて歌って(弾いて)いたのを知っている(これもかなり渋い)。そしてこの曲の歌詞からは、シンディとデビッドの熱い愛情がうかがい知れる。しかし、この二人の蜜月時代は長く続かなかったという。アーティストとして、より「売れる」曲を作ろうとするマネージャーの思惑と、偽らない自分を表現したいと思うシンディの気持ちが、かみ合わなくなったのである。シンディはスランプに陥り、マネージャーであり婚約者でもあったデビッドと別れ、一人旅に出たという。
 その後、シンディの傷が癒された頃、俳優のデビット・ソートン(なんと前の婚約者と同じ名前!)と出会い、1991年にめでたく結婚したという。その後は、ソングライターとして奮起し『ハット・フル・オブ・スターズ』を発表し、順調に活動を続けている。ベストアルバムのライナー・ノートに、シンディの次のような言葉が掲載されていたので紹介しておく。
 「私にとって世界中の富でさえ、誇りや心の清廉さを買い取ることはできないわ。誇りは内側から生まれるものなの。自分に自分らしく生きることを認めて初めて生まれるの」
 1989年に来日したとき、シンディは日本に到着したその日から、ツアー・クルーやレコード会社のスタッフ、プロモーターとの打ち合わせ会議に出席し、自ら司会をしたのだという。ビッグ・アーティストになれば、そういうことはマネージャーに任せて、自分はホテルで休むのが普通である。それほどシンディは、自分を表現することに対して、常に自分の事として真摯に取り組んでいたのであろう。
 さらにその少し前、1985年のことだが、USAフォー・アフリカの「ウィ・アー・ザ・ワールド」にも参加している。こういうチャリティにも進んで参加していることもシンディの前向きな姿勢の表れではないだろうか。

 

スコット・マッケンジー「花のサンフランシスコ」

 8年ほど前に仕事でアメリカのロスへ行った。次年度から実施する事業の下見と現地業者との打ち合わせの名目で行った。実際は打ち合わせとか下見と言っても、そう時間がかかるものでもなく、実態は現地旅行業者による接待という趣の出張だった。ロスがメインであったがサンフランシスコも下見という名目で連れていってもらった。
 「花のサンフランシスコ」は、ゆったりとした曲である。今の感覚で言えば、おじんくさい雰囲気があるようにも思う。しかし、この曲が流行していたころ、僕はまだ中学生であった。なので、今おじんくさい曲でも、そのときは、素晴らしいメロディのこれ以上ないほどのものだと認識していた。人の意識というのは刻々と変化するものなのだ。
 まあそんな時代のギャップはあるが、今聴いた感じがどうであれ、一時期は、この曲に深く思い入れを持っていたし、そのサンフランシスコという地名に、アメリカの雄大な景色と自由な空気を重ねていた。映画「イージー・ライダー」でその街が出ていたかどうか分からないが、とにかくヒッピーとかフリーダムとかピースとかフラワームーブメントなどの言葉がよく似合う街(都市)のイメージがあった。
 その街へ初めて実際に立ったのである。自分ひとりで(心の中だけで)かなり感激、感動していた。中学生のころ、ジョーン・バエズとかジェファーソン・エアプレインとかがこの街で活躍していたんだろうな・・・・・と。いろいろ感慨深かった。
 業者の現地日本人営業マンは、僕をシスコの名所へいろいろ案内してくれた。ツイン・ピークスの丘とかゴールデン・ゲート・ブリッジとか。で、その時、最近フリートウッド・マックがここの公園で再結成のコンサートやってましたよ、とかの話を聞き、サンフランシスコは今でも音楽にあふれた街なんだ、と思ったのである。

ステッペン・ウルフ「ワイルドでいこう」

 主演のピーター・フォンダがバイクにまたがり、おもむろに自分の腕時計を外し、地面に捨てる、そしてこの「ワイルドで行こう」が流れる。映画「イージー・ライダー」の冒頭部分の有名なシーンだ。この曲に乗って二人のライダーの旅が始まる。ニューシネマと呼ばれたアメリカ映画は「卒業」「明日に向かって撃て」などヒット作がある。中でも「イージーライダー」は若者の自由を求める空気を敏感に反映した内容だった。映画の冒頭に腕時計を捨てる(=束縛・時間からの解放)、なんと分かりやすく、今思えば、くさい演出なことか。しかしこれを見た中学時代の僕は、めっちゃカッコよいと思った。「僕もバイクに乗って受験とかの束縛から解放されよう!」なんて単純に思っていた(すぐ自分の都合の良い方向に感化されるタイプかもしれない)。映画を見たのは四条大宮にあったコマゴールドという映画館だった(今は無い)。封切り館ではなかったので、話題になってだいぶ経過していた。しかし十分に影響を受けた。その後のバイク好きもこの「イージーライダー」の影響である。この映画には、ステッペン・ウルフの他に、CSN&Yやザ・バーズなどの楽曲も挿入歌として流れており、アメリカの雄大な景色とあいまって、強烈な印象がある。原題「Born To Be Wild」は、曲の後半部分で繰り返され、野性味あふれるアレンジとなっている。このグループの曲は他にはあまり聞かない。しかし1曲でも大ヒットすれば、いつまでも歌い継がれるものだ。

スリー・ドッグ・ナイト「喜びの世界」

 「Joy To The World(ジョイ・ツー・ザ・ワールド)」だが邦題は「喜びの世界」で数十年前ヒットした。スリー・ドッグ・ナイトは、この曲以外にも「ママ・トールド・ミー」「オールド・ファッションド・ラブ・ソング」「ブラック・アンド・ホワイト」などがある。日本でヒットするツボのようなものを心得た曲が多かった。
 この「喜びの世界」はインパクトのある曲である。また楽曲としてもまとまっている。特にコーラス部分が並のロックではない壮大さを感じる。なぜか心にジーンとくる。
 20年ほど前に、衛星放送のWOWOWで「ザ・レコーディング」という番組があった。毎回同じメンツのスタジオミュージシャンが、ゲストを迎えて、そのゲストの気に入っている曲を、このスタッフのアレンジで演奏する、というものであった。また打ち合わせ風景やアレンジの別バージョンの演奏風景なども流れ、バンドをしているものには、なかなか興味深い番組だった。毎回出演するミュージシャンには、村上ポンタ(Dr)・井上鑑(Key)・今は亡き大村憲司(G)・高水健司(B)・チャラ(Ch)といった面々。何回目かのときに近藤房之助がゲストで出演した。ブルースナンバーでも演奏するのかと思ったら、この「喜びの世界」だった。しかし内容はなかなか良かった。出だしのシャウトするところは、さすがに房之助らしい味を出していた。
 「喜びの世界」は、今流れていても、そう古びた感じはない。知らない人が聴いたら新曲かと思うのではないだろうか。この曲は数年前に、レヨナもカバーしている。

 

ゼーガーとエバンス「西暦2525年」

ゼーガーとエバンス「西暦2525年」

 ヒットしたのは恐らく今から40数年ほど前のこと。僕が小学生の頃のことである。四条河原町の「高島屋」の玄関口にKBS京都放送(ラジオ局)のサテライトスタジオがあった。あったと書いたが実際この目で見たことはない。ただここの放送局で毎日夕方5時半くらいからジュークボックスへのリクエスト番組を放送していたのである。その番組をよく聞いていた。その頃流行していたのは、フォーク・クルセイダースの「帰ってきたヨッパライ」だった。そしてこの「In The Year 2525」。
 ちょっとスペインとかの民謡風なメロディ(アレンジ)でだんだんと盛りあがり、一旦ブレイクが入り、そして少し盛りあがって終わる(知らない人は何の事かわからない)、そんな構成だった。小学生でもこの曲に注目したのは、この曲の邦題がいかにもSF的だったこともあるだろう。ひょっとしてテレビで映画「タイムマシン」を見た頃かもしれない。定かではない。2000年なんていつの話だろうか、と思っていたら、もう今年は2011年。

ザ・ゾンビーズ「Time Of The Season /二人のシーズン」

 ゾンビーズは1967年デビューして翌年にはラストアルバム「Odessey Oracle」を発表して解散した、とても短かい活動期間のバンドである。そんなラストアルバムに収録されているのがこの「二人のシーズン」だ(このシングルカットがヒットした時にはゾンビーズは解散していたという)。
 イントロはベース&ベードラのみで始まる。ベン・E・キングのスタンド・バイ・ミーと同じパターンだ。ボーカルは低く静かに歌われる。途中、ピアノでさり気なく入れる「おかず」が効いている。僕は、この曲の最大のヤマ場はこのピアノの四分音符二つ、だと前々から思っている。もちろん一般的には、後段のサビ、ハモリで盛り上がるところが印象的には大きいのだが、それでも、あのピアノの音階メロディが、なぜか心に残るのである。
 1968年の9月にはザ・モンキーズが来日した。羽田空港には女性ファン1万2千人が詰めかけて大混乱したという。モンキーズはアメリカで、イギリス製のビートルズに対抗して人工的に作られたバンド(演奏はスタジオミュージシャンが録音し彼らは演奏しているかっこうをしていただけ、ということから)だったらしい(が、実際は演奏もしっかりとしていた、という証言もある)。テレビを通して広く世界中で人気が出て、当然日本でも声が吹替えられて放送され、かなりの人気番組だった。このモンキーズの出現は、当時のビートルズの存在がいかに大きかったか、アメリカ音楽業界は対抗意識を燃やしていたのか、ということが逆にわかる。
 そんなビートルズが世界中の音楽シーンを席巻していた時であるから、ゾンビーズのデビューも、時期が悪かったということかもしれない。

                               つづく・・・・・・★た行~

 

 

 

 

 

 

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