My Favorite SongsⅡ

私の好きなこの1曲 (★た行~は行) ★あ行~さ行

★た行

ダリダ&アラン・ドロン「あまい囁き」

 1973年に発表されたフランス映画界の当代きっての人気男優アラン・ドロン(当時37歳)とイタリア生まれの熟年歌手ダリダ(当時40歳)との作品。「君だけが僕の永遠の真実のあかし・・・・(男)」「また口先だけ、言葉だけなのね・・・(女)」といった男(ドロン)と女(ダリダ)の甘い会話(もちろんフランス語)で構成された異色の曲だ。このヒットにあやかろうと、ドロン役に細川俊之、ダリダ役に中村晃子(「虹色の湖」懐かし~い!!)で日本語版が出されたようだが、不発だったようだ。甘い会話ではフランス語に勝るものはない、ということだろう。
 僕の大学生時代、近くに「ピエール」という喫茶店があった。平屋で白いペンキで塗装された洋館風の建物で、確かフランス国旗がいつも立てかけてあった。店内は洒落たテーブルとイスが、そこそこの空間に配置され、やや奥まったところに、少しゴージャスな感じの独立したイスがひとつ、まるで常にライトを照らされているように置かれていた。このイスは、聞くところによるとアラン・ドロンが来日した折にこの店に立ち寄り、座ったイスだ、ということであった(真偽のほどは不明だが近くには金閣寺や竜安寺、仁和寺などがあり、外国人の観光者が立ち寄ってもおかしくない土地柄ではある)。そのイスは、この店でお茶を飲む為ではなく、ドロンの座った余韻を確かめるために、ドロンのファンの為に用意されている、ということであった。その後何年かして、ここの喫茶店は、建物はそのままで「からふね屋」というコーヒーのチェーン店に名前を変え、そして現在は、その跡形もないコンビニエンス・ストア(ローソン)になり、さらに牛丼チェーン(なか卯)になっている。ドロンご縁の場所も様変わりしたものである。

チャビー・チェッカー 「レッツ・ツイスト・アゲイン」

 ドラムスのリズムに合わせ「Come on Everybody~」の掛け声で始まる軽快なロックンロール。1964年8月にビルボード8位を記録したチャビー・チェッカーのヒット曲。チャビー・チェッカーは他にも「ザ・ツイスト」「ツイスティン・U.S.A.」「スロー・ツイスト」「 ツイスト・イット・アップ」とツイストにこだわり続けた。
 日本ではオールディーズのバンドなどで定番の曲である。僕がこの曲を演奏し始めたのも、そういった日本のオールディーズバンドのコンピレーション・アルバムを聴いてからである。このアルバムには、あの「キッスは目にして」のコニーさんのバンドもあったことを思い出す。

チャック・ベリー「ジョニ-・B・グッド」

 ロックンロールの帝王、キング・オブ・ロックンロールと称されるチャック・ベリーは、アメリカの黒人音楽であるブルースと白人音楽のカントリーの融合から50年代に生まれたロックン・ロールの生みの親である。チャック・ベリーの出現によってロックン・ロールの本当の歴史が始まったのである。
 チャック・ベリーは1926年米ミズーリ州セントルイスに生まれる。ミュージシャンとしてのデビューは比較的遅く、29歳の時にブルース界の大御所マディ・ウォーターズの紹介でチェス・レーベルと契約、「メイベリーン」で念願のレコード・デビューを果たす(1955年・・・僕が生まれた年だ!!)。
 彼はデビュー以降、「School Day」「Rock 'n Roll Music」「Sweet Little Sixteen」「Carol」などの大ヒットを連発し、一躍スターダムにのし上がるのである。ところが、当時はまだ黒人差別が露骨に存在していた時代である。「マン法(ザ・ホワイト・スレイブ・トラフィック・アクトの略称)」という、チャック・ベリーのようなアーティストを狙い打ちする法律が適用され(14歳のネイティブ・アメリカンの少女をテキサス州から連れだし、その後のコンサート・ツアーで全米中を連れ回し、売春行為を強要したという)、1959年に逮捕、懲役5年の刑を言い渡されたのである(この法律は、「売春など不道徳な目的のために女性を連れだし州境を越えることを禁じる」というもの)。いまどきの音楽界なら、熱狂的なファンがグルーピーと呼ばれ、ミュージシャンとの関係を求めるのも当たり前、行く先々への追っかけなんか当たり前の時代である。いかに当時の黒人ミュージシャンへのやっかみが大きかったかがわかるのである。が、それにしても犯罪行為であったことは確かなようなので、これを正当化するものではないことも事実なのだが・・・。
 それ以降、チャック・ベリーは表舞台からは遠ざかっていくのであるが、60歳の誕生日を迎え、ストーンズのキース・リチャーズは、彼の為にコンサートを企画した。それはロックンロールの申し子、チルドレン達の恩返し、という趣だったのだろう。そのコンサートの模様を映画化し、それが大ヒットし、再び脚光をあびることとなったのである。
 「ジョニ-・B・グッド」はロックンロールのスタンダード曲で、この曲をよく知らない、という人でも、映画「バック・ツー・ザ・フューチャー」で主人公のマーティが、怪我をしたバンドマンの代わりに、ギターを持ってバンドに飛び入り参加し歌った曲、と言えば大抵の人は「ああ、あの曲・・・」となるだろう(その曲の後半部分はヘビーメタルっぽい弾き方をして会場がしらけるオチまでつくが)。そしてかのマーティ役のマイケル・J・フォックスが舞台の上でギターをかかえて腰を低くして演奏するスタイルは「ダック・ウォーク」と言われ、チャック・ベリーの代名詞となっている。またなんといってもイントロのギターの繰り返し部分は有名だ。この部分をコピーしたギタリストは数知れず、エレキギターの入門曲であり、これほど多くのロック・ミュージシャンがカバーしている曲もないだろう。1958年に全米で8位となっている。
 1989年、アメリカ航空宇宙局NASAでは、太陽系外への人類のメッセージを伝える目的で、ネプチューン計画を実行した。その計画を進めるボイジャー2号の船体には、バッハの曲とともにチャック・ベリーの「ジョニ-・B・グッド」が積み込まれたのだという。人類を代表する音楽大使は、いまも宇宙のどこかを彷徨っているのか、それとも・・・・。

チェイス「黒い炎 GET IT ON 」

 1971年、全米24位になった。チェイスはブラッド・スゥェット&ティアーズ(血と汗と涙)、シカゴなどと同じジャンルになるのだろうか、それらを総称してブラス・ロックと呼ばれていた。つまりブラス(ホーン)・サウンドを存分に取り入れたロックということだ。BS&Tやシカゴは、ブラスがメインになったアップテンポな曲以外にも、バラードやブルースなどの幅広い楽曲が知られているが、このチェイスに関しては、この曲が代表作。トランペットの追っかけ、息もつかさぬテンポのよさ、また全体の構成がボーカル部分とホーン部分でうまくかみ合った作品といえる。これがデビュー作のようだが、これ以降のヒットをあまり聞かない。確か、飛行機事故で全員が亡くなったのではなかったか。
 このチェイスの「黒い炎」をカバー曲として取り上げ、シングルカットまでしたのは日本のTOPSという関西出身のバンドだった。カバー曲ばかりを集めた『ビークル』というアルバムに「ゲット・バック」「シュガー・ベイビー・ラブ」などとともに入っている(1987年)。このカバーは日本語で歌われており、その訳詞をしたのは爆風スランプのサンプラザ中野というクレジットがある。
「くさった瞳の若者よ、情熱の中で太陽をつかめ~」といった、なんとも勇ましい内容だ。TOPSは、もともと京都を拠点にして活動していたソウル・バンドのITACHI(いたち)のボーカルの三井昌弘がブラス・セクションをメンバーに入れて、またメジャーを志向して作ったバンドである。ITACHIは実物をよく京都市内のライブハウスで見たものである(結構僕は好きなバンドだった、当時ベースにバーベキュー和佐田がいて後に爆風スランプへ移籍する)。TOPSは後に山際淳子がメインボーカルとして加入し、三井はマネージャーになった、という悲惨?な経過をたどる。サディスティック・ミカ・バンドのカバー曲「タイムマシーンにお願い」をヒットさせてメジャーになった。現在は活動しているのだろうか、よく知らない。

デオダート 「ツァラトゥストラはかく語りき」

 クラシック関連の曲。この曲はリヒャルト・シュトラウスの同名タイトルをジャズ風(というのかフュージョン)にアレンジしている。基本の旋律をモチーフに、延々とアドリブ演奏が続くのが印象的な曲で、SF映画「2001年宇宙の旅」に使われたことで有名になった。デオダートは、ブラジル人のアレンジャーで、他にも「青きドナウの流れ」などもアレンジしている。
 この曲は映画音楽に使われたことでもわかるように、何かを強く主張しているような、かつ何かを予感させるような曲だ(プロローグとかにぴったり)。タイトルからして哲学的なイメージがあるが、メロディが壮大であり、メリハリのある旋律が繰り返される。運動会あるいはオリンピックなどの開会式におけるファンファーレ的な曲とも言える。そう思うのは、かつて僕が高校生のときにあこがれていた(こういうエンターテイナーになってみたい、という意味での)エルビス・プレスリーが、コンサートの舞台に登場する際に、幕前にこの曲が使われていたからである。これからすごいことが始まるよ、すごい人が登場するんだよ、とでも言いたげな雰囲気を出していたのが、この「ツァラトゥストラはかく語りき」だった。もちろん、この時のアレンジはデオダートのものではなく、よりオリジナルのクラシックに近いものであった。その後、この曲は、いろいろなアーティストのコンサートや演劇などでもよく耳にした。

ディオンヌ・ワーウィック「ハート・ブレイカー」

 ディオンヌ・ワーウィックは1940年生まれというから今ではもう還暦を過ぎたお婆さんという年齢になる。大ヒットからは遠ざかっているものの、今も音楽活動は続けているらしい。数年前にも来日している。デビュー当時(1963年~)、作曲家バート・バカラックの秘蔵っ子と言われ、文字通り、その作曲による「サンホセへの道」「恋にさよなら」「WALK ON BY」「小さな願い」などたくさんのヒットに恵まれている。これらの曲は日本でも馴染みが深い(ちょうど僕は中学生の時代で軽快なメロディでとても印象に残っている)。その後、1970年代に入り、作詞家のハル・デイビットとバカラックが仲たがいし、ディオンヌを巻き込んでの三つ巴の訴訟合戦になったという(この時期は歌手としてはヒットに恵まれず不遇な時期となった)。そして1979年にはレコード会社をアリスタに変え、ビージーズのバリー・ギブのプロデュース(および作曲)によりアメリカ以上に日本で大ヒットしたのがこの「ハート・ブレイカー」である。
 「ハート・ブレイカー」というタイトルの曲はグランド・ファンク・レイルロードが有名かもしれない。しかしディオンヌの曲はハードロックではなく、とても美しいバラードである。はじめにストリング(シンセサイザー)の目一杯のイントロが入る。このメロディが既にサビ的なコクのあるメロディになっている。そしてすっと雰囲気が変わりディオンヌのボーカルが入る。このイントロからしたら、もっと強く主張するようなボーカルの予感があるのだが、それを裏切り、なにげなく歌が始まるのである。このギャップがまた心地よい。そして野太い声量のディオンヌのしっかりとした歌が変わることなく続き、そしてまたイントロのストリングスのメロディが絡まっていく。このあたりのアレンジは、日本の歌謡曲的という感じがしないでもないが、やはりビージーズの作曲であるところの洗練されたメロディラインが素晴らしい。琴線に触れる、という表現がいいのか、とにかく何度聴いても飽きない曲である。
 この「ハート・ブレイカー」がヒットしていた時期は、ちょうど就職したての頃だった。ラジオではじめてこの曲を聴き、これは名曲だ、と感激し、シングルレコード(もちろんアナログ)を新譜で買った。この曲を含めて、好きなシングルをカセットテープに録音し、ベスト・セレクション(あるいはマイ・ベスト)というタイトルを付けたテープをよく作ったものである。「ハート・ブレイカー」はもちろんトリ(一番最後)に、しかもテープが終わる部分を計算し、その前の曲を短くカットしてでも調整して作っていた。いまのCD→MDだったらそんな調整は簡単なのだが、アナログはけっこう大変だった(けどそれも楽しい作業でもあった)。
 ちなみに1983年になって、ふたたびバート・バカラックとコンビを組み、映画音楽を手がけ、翌年、スティービー・ワンダー、グラディス・ナイト、エルトン・ジョンとの共演作「愛のハーモニー」が全米ナンバーワンとなった。以後、バート・バカラックとは1960年代に戻ったかのような蜜月時代が続くこととなる。ヨカッタ、ヨカッタ。

T・レックス「ゲット・イット・オン」

 T・レックスの前身は1967年結成のテラノザウルス・レックスいうバンドで、風変わりなフォーク調の曲を作っていたらしい。その後、リーダーのマーク・ボランがエレクトリックサウンドに変更し、1970年、その頭文字の「T」・レックスとしたようだ。T・レックスの音楽は、デビッド・ボウイ等とともにグラム・ロックというジャンルで呼ばれていた。71年に「電気の武者」というアルバムを発表し、その中にこの「ゲット・イット・オン」が収録されている。ギターをミュートしたブギ―のリズムに、ベース、ドラムが重なっていくイントロは印象的だ。またブギ―というのかロックンロールというのか、サイド・ギターの~・チャチャッ、~・チャチャッ~、という小刻みな裏打ちが、ノリの良さを出している。この軽いアレンジは、簡単そうでなかなか、その味を出すのは困難だと思う。この曲には、バンドの演奏とともに、数人の踊り子がお似合いだ。ショートカットの金髪、バストが強調されたピチピチの無地のシャツとタイトなパンツで、一人ずつ円柱の踊り台に乗る、というシチュエーション。確か古い外国の音楽番組のスタジオで、こんな場面を見た記憶がある。
 数年前、タモリの司会をしている音楽TV番組に、サザンの桑田圭佑が出ていた。「東京」と「ロックンロール・ヒーロー」の2曲をフルコーラスで歌っていた。さすが大物シンガーだ(僕と同い年)。「ロックン~」の方は、コカコーラのCMで流れていてヒットしている。CMではサビの部分だけなのだが、この番組でフルで聴いて、全体として、この「ゲット・イット・オン」に良く似ていると思った。メロディも少し、そしてブギ―の裏打ちのアレンジはそっくりだ。世の中には似たような曲がいっぱいあるものだ。

デイブ・ディ・グループ「キサナドゥーの伝説」

 以前NHKの昼の番組でなつメロ特集番組があった。黛ジュン(天使の誘惑)とか中村晃子(虹色の湖)などの他に、グループサウンズの特集のようなコーナーがあり、もとジャガーズのボーカル岡本信が「君に会いたい」を歌っていた。このジャガーズは他にも海外のカバー曲の日本語バージョンなどでもヒット曲がある。「オーケイ!」と、この「キサナドゥの伝説」だ。「~オー愛に生きて死のう~」という一節から始まり曲間に効果音が入る構成はオリジナル曲とほぼ同じである。当時、僕は小学生~中学生くらいのことだったのでカバー曲という認識はまったくなかった。オリジナル曲だと思っていた。
 デイブ・ディ・グループはイギリスの5人編成のバンドでこの曲も全英でトップヒットとなったようだ。英国では「DAVE DEE DOZY BEAKY MICK AND TICH」という5人の名前を連ねたのが正式なグループ名だったようだが、日本のプロモーターか、レコード会社の意向か、面倒くさいので、最初の名前だけ残して「~グループ」としてしまったようだ。さらに僕らはジャガーズのヒットでも印象深い「キサナドゥー」という言葉も原曲名が「The Legend Of Xanadu」となっていて本当は「ザナドゥー」と発音するのが正しい。オリビア・ニュートンジョンのヒット曲は確かに「ザナドゥー」だ。これも当時のおおらかさが出ているエピソードである。

 

ディープ・パープル「スモーク・オン・ザ・ウォーター」

 日本語直訳ロックの王様(ミュージシャン)が「湖上の煙」というタイトルで歌っている。ハード・ロックの古典的名作と称されている。この曲のイントロは、きっとロックになじみのない人でも、どこかで聴いたことのあるフレーズであろう。また王様は全曲をコピーしているが、このイントロは、ディープ・パープルを表わすための最も簡単なメロディである。
 1968年に前衛ロック・バンドとしてデビュー。70年から74年にかけて全盛期を迎える。この曲以外にも「ハイウェイ・スター」「ブラック・ナイト」などがヒットしている。ギターのリッチー・ブラックモア、キーボードのジョン・ロードの掛け合いが人気だった。そしてこのバンドがいまだに存在感のあるバンドである理由は、度重なるメンバー・チェンジにより、脱退したメンバーがビッグになって、ディープ・パープル・ファミリーを形成しているところにある。有名なバンドを少し挙げてみても、レインボー、イアン・ギラン・バンド、ホワイト・スネイク、さらにその次の世代としてディオ、ブラック・サバス等々、とても多いのである。

 


 1976年の「8・8ロック・ディ」の最優秀バンド、沖縄出身のハード・ロック・バンド、紫(MURASAKI)は、その名前のとおり、ディープ・パープルのコピー・バンドであった。しかも、その卓越したテクニックとオリジナリティは、ディープ・パープルを超えると言われていた。「8・8」での優勝後は、プロデビューして、アルバムが何作かある。
 僕は「8・8」の何年かのステージだったか忘れたが、実際の紫を見たことがある(過去の優勝バンドとしてゲスト出演していたものだと思われる)。当時の主流だったこてこてのブルースバンドやR&Bバンドの中にあって、紫の洗練されたステージは、とてもカッコよかった。

ドゥービー・ブラザーズ「リッスン・トゥ・ザ・ミュージック」

 1970年代のアメリカのウェスト・コーストを代表するバンドだ。ロスアンゼルスを中心としたイーグルスに対して、サンフランシスコを中心に活動していた。この「リッスン・トゥ・ザ・ミュージック」は1972年のヒット曲。アコースティックギターの6弦を開放で弾き鳴らしつつ、Eのハイコードの軽快なカッティングのイントロが印象的だ。
 この曲をはじめて聴いたのはオリジナル曲ではなかった。よく話題にする「8・8ロックディ」のコンサートで、アマチュアバンド(ナッツベリー・ファーム)が演奏していたのを聴いた。やはりイントロのカッティングがカッコイイな~、と思った。そしてさびの部分「oh~ listen to the music」のハモリもカッコよかった。その後、本物のドゥービー版を聴いてますますいい曲だと思った。2コーラス目のAメロが少し変化しているところもよい。そして、音楽をやっているものにとっても、何かすごくハッピーになる歌詞内容ではないか。
 実はその後、たぶん1980年ころだろう。大学の軽音楽部の学内のコンサートがあった。そこでもこの「リッスン・トゥ・ザ・ミュージック」を演奏していた(アンコールに応えての全員登場しての演奏だった)。そしてコーラスになんかソウルフルなボーカルが絡んでいるのが聴こえてきた。皆が「oh ~listen to the music」と歌っている裏で「get you get you oh ga ga ga ga~」とかなんとか。うしろの方にいる、あ、あの小さな男子学生か。えらいノリいいな、歌うまそうやし。と思って見ていた。彼こそ、後にアメリカでのメジャーデビューを実現した元LOUDNES(ヘビィメタルでは超有名なバンド)のボーカル、二井原実君であった。その後の活躍は知る人ぞ知るものだ。

ドゥービー・ブラザーズ「チャイナ・グローヴ」

 「チャイナ・グローヴ」は、ドゥービー・ブラザーズの3枚目のアルバム「ザ・キャプテン&ミー」に収録されていてヒットした。イントロのギターで始まるフレーズは有名だ。
 ドゥービー・ブラザーズの前身はPUD(パッド?)という3人編成のバンドだったようだ。それが1969年の頃。その後4人に増え、1970年にドゥービー・ブラザーズと改称しデビューを果たす。「ドゥービー」とはマリファナ・ジョイントのことで、デビュー当初は、ファンの質もあまりよくなかったという。その後ツインドラムスの編成となり大ヒット「リッスン・トゥ・ザ・ミュージック」で全米ロックシーンで知られるところとなった。この「チャイナ・クローヴ」がヒットした1974年頃、あの有名なフレーズが、大学生のバンド等でさかんにコピーされていたように記憶する。それだけインパクトのある曲だった。

TOTO「ロザーナ」

 男性の場合、小用をする際、便器の斜め下に記された「TOTO」の文字を毎日(というのか、いたるところで)必ず見ている(よくよく見ていると「inax」などの場合もあるが)。大正6年に創立された、トイレ・バス・キッチンを主な営業品目としている「東陶機器株式会社(本社・北九州市)」のロゴである。このロゴをアメリカのアーティストのサポートメンバーとして来日したミュージシャンが見て、「どこの便器にも記されている、きっと有名な名前に違いない」と思い、帰国して新しいバンドの名前を「TOTO」と命名した。これが、TOTOの名前に関する噂がある。
 僕はこの噂をかなり以前に聞いていたので、てっきりそうだと思っていた。ところが、解説書などで調べていくと、その噂も怪しいらしい。らしい、というのは、この命名の由来が、公的にはどこにも発表されていないし、メンバーもあえて公表を避けている節があるからだ。なのでまことしやかに噂となっているのだろう。この①便器命名説(?)の他に、②メンバーのボビー・キンボールの正式な名字「Toteaux」を単純化したもの、という説。③「オズの魔法使い」に登場する犬の名前からインスピレイションを受けた、という説。④ラテン語の「すべて、全部」から取ったと言う説。などいろいろある(②と③が有力らしい)。
 もともとメンバーはスタジオ・ミュージシャン(ボズ・スキャッグスのセッションが契機)の集まりである。1978年に「宇宙の騎士」でデビュー。サウンド的には、ハードロック、プログレッシブロック、AORが織り交ざった、腕達者なスタジオミュージシャンの集まりという感じである(このTOTOの楽曲のクオリティの高さには定評があり、ボストンなどと同様に産業ロックと呼ばれている)。そして1982年、アルバム「TOTOⅣ~聖なる剣」を発表。このアルバムが大ヒット、グラミー賞の主要7部門で最優秀賞を獲得。このアルバムからのシングルカットが「ロザーナ」である。ブラスを随所に効かせたマニアックなアレンジ、なのに耳障りの良いサウンド。ボーカルのメリハリの効いた声。総ての楽器が完璧にこなされている。メンバーチェンジを繰り返したTOTOが、最高のメンバーで完成させたアルバム「聖なる剣」を代表する秀曲。

 

ドーン「ノックは3回」

 ドーンというグループがどういう経歴を持っていたのか知らないが、この曲は結構ヒットした。曲中にノックをする表現として打楽器でブレイクするところが印象的(コン・コン・コン)。1971年のヒット曲。
 高校時代、エレキ・ギターを弾くようになって、サックスを吹いている吹奏楽部の友人(女の子)と何か合わせよう、ということになった。何曲かギターを伴奏に吹いてもらった。その後、二人だけではおもしろくないので、ベースとドラムスを入れ、学園祭で演奏しようということになった。そのときに取り上げた1曲がこの曲だった。歌なしで、サックスだけのメロディなので、今から思うとダサい演奏だった。けれども、このとき、楽器にはキーというものがある(アルトサックスは確かB♭)ことが分かったり、出来るだけオリジナルな演奏となるよう、ベースだけは、ドーンの楽譜どおりに弾いてもらったり、いろいろ勉強になった。
 ドーンはその後、「幸せの黄色いリボン」など何曲か出していた。どれも、牧歌的というか、楽しい感じの曲ばかりであった。今の時代から見れば、パッとしないものだが、あらためて聴いたりすれば、懐かしい曲だ。

★な行

1910フルーツガムカンパニー「サイモン・セッズ」

 1970年代の前、アメリカのブッダレーベルのバンドだ。陽気な曲調は、バブルガム(風船ガム)サウンドと呼ばれ、このバンド名も「フルーツガム会社」というものだ。キーボード(オルガン)主体の演奏にボーカルとコーラスの掛け合い、追っかけが特色で、少し幼児っぽい作品だが、結構ヒットした。そういう曲が、高度経済成長の時代と合っていたのだろう。なにしろ「バブル」なのだ。このバンドは、その後に「トレイン」という、ちょっと暗い目の曲を出し、日本でヒットしているが、このヒットは日本だけのものだったようだ。

ナンシー・シナトラ「YOU ONLY LIVE TWICE」

 ショーン・コネリー演じるジェームズ・ボンド「007は二度死ぬ」のテーマソングだ。この映画は日本が舞台になっていた。そしてボンド・ガールには、当時の第一線の女優、浜三枝が選ばれた。また共演者に丹波哲郎なども出ていた。当時、人気スポーツカーのトヨタ2000GTを海中へ沈めたことでも話題になった。僕はこの映画を封切りで見た。小学生だったと記憶するが、3つ年上のいとことその友人に連れていってもらったのである。地元には大きな映画館は無いので、汽車(当時は電化されていなかった)に乗って京都市内にある(たぶん京極東宝の)映画館で見た。この映画は、その後テレビでも何回も放送されているので、今の目で見れば、みえみえの特撮映像がかなり入っていることが分かる。が、当時、小学生の目で見たこの映画は、すべてが本物だという受け止め方をしていた。「やっぱり外国映画は違うな・・・」「(瀬戸内海だと思われるが)海の中にこんな秘密基地を造って撮影しとるんや・・・」等々。ストーリーは、一度は殺された、とされたボンドが、ふたたび日本人に変装して悪の基地を破壊する、という単純なもので、細かい設定は別として、小学生の僕にもなんとか理解できるものだった。そしてなにより僕の鼓動を高くしたのは、最後にボンドと浜三枝(劇中の名はキッシー、変な名前!)が、海中の基地を爆破し、ゴムボートで脱出し、二人だけの海の上で、浜三枝は白い水着姿(こういうシチュエーションはすごくリアルに憶えているものである)で、ボンドとするキスシーンである。小学生の僕は「キスっちゅうのは、こんなに長いことするもんなんか・・・、息出来るんやろか・・・」というようなことなどを思春期前のうぶな気持ちでぼーっとながめていたのである。ちょっとした性への目覚めだったかもしれない。今の時代の子供達に比べれば、なんと「純」だったことか。
 この曲はその映画の主題歌。今回は曲についてというよりも、映画の話となった。

ニール・ヤング「孤独の旅路」

 少し前のことになるが、サッカーで、ドイツ代表のゴールキーパー、カーンが、ミュージシャンのニール・ヤングの初期のころに似ているという話があった。確かに、今のニール・ヤングは知らないが「孤独の旅路」「ハリケーン」を歌っていた頃のワイルドな風貌が似ていないことはない。ニール・ヤングは、アメリカの伝説的なフォークロックバンド、CSN&Yの「Y」として活躍した後、ソロ活動を続けている。CSN&Yのハーモニーをメインとした静かで叙情的なサウンドに対して、骨太なロックが彼の身上であろう。「孤独の旅路」はスローな曲調で、イントロのハープが物悲しげではあるが、全体を通して聞くと、とても力強い、パワーのある曲である。
 いつだったか「下北沢のジャニス」と呼ばれている金子マリさんが、京都の「たくたく」という老舗のライブハウスに来たことがあった。冬の寒い日だったと記憶するが、マリさんは、かなりひどく風邪をひいていて、歌うのが苦しそうであった。それでも、あのソウルフルなボーカルで何曲かを歌った。その中に「孤独の旅路」があった。アレンジはかなりカッコ良かったし、そのときの風邪気味の声にも合っているように思った。

ニュー・シーカーズ「愛のハーモニー」

 1972年のヒット曲。原題は「I'd Like Teach The World To Sing (In Parfect Harmony)」となっていて、訳せば「(完全なるハーモニーで)歌うことをみんなに教えてあげたい」ということになる。つまりゴスペルソングのようである。それを「愛するハーモニー」と付けた日本側のレコード会社も、その堅い印象をうまく和らげている。コカ・コーラのCMソングとして当時使われていたこともあって、日本ではかなりのヒットとなった。ニュー・シーカーズは、その5年ほど前に「ジョージ・ガール」でヒットしたシーカーズの再結成したフォーク・コーラスバンドである。こちらのヒットも懐かしい。「~Hey Girl Geoge Girl~」という出だしのポップな曲だ。オーストラリア出身の4人組。
 数年前に「ブック・オフ」でニュー・シーカーズの輸入盤を見つけ、少し迷ったが結局買った。アルバム名はその曲に付加されている言葉である「PERFECT HARMONY」である。このアルバムにはボブ・ディランの「風に吹かれて」、ビートルズの「ヒア・ゼア・アンド・エブリフェア」、エルトン・ジョンの「ユア・ソング」などのカバー曲があって、コーラスアレンジが施されていた。またジャケットもアーティスティックなペイントと4人の顔をあしらったポップ(というのかサイケデリック)な感じである。

★は行

ザ・パートリッジ・フアミリー「悲しき初恋」

 パートリッジ・フアミリーは、家族で結成したバンドが、アメリカ各地をツアーをしていく様子をえがいたテレビドラマ。そのドラマで歌われて、実際のヒットチャートにも登場した曲が「悲しき初恋」。原題は「I think I love you」。日本でもドラマが放送されていたが、あまり熱心に見た記憶は無い。ただ、アメリカのホームドラマによくある美しいママは憶えている。ネットで調べたら映画「オクラホマ!」「回転木馬」に出ているシャーリー・ジョーンズという女優さんだそうだ(今はもうしっかりおばあちゃんだろうが)。この曲のボーカルをとっていたのが、ドラマでは長男役のデビッド・キャシディという、これまた当時の男性アイドルだった。この曲がヒットしているころは、1970~74年ころ。僕は高校生だった。定期試験などでラジオのリクエスト番組を聞きながら勉強していたときによく聴いた。テレビドラマからヒットしただけあって、いかにも役者が歌っているような、情感たっぷりの歌い方だった。悪く言えば子供向け的な曲調だが、なぜか耳に残る曲だ。
 こういったヒット曲の記憶と、そのときの自身の時代の記憶は、けっこう何年たっても消えないものだ。またその曲が流れて昔のことを思い出すこともよくある。それが良い想い出、悲しい想い出にかかわらず。すべての人がその曲に同じ想い出を共有することなど無い。それぞれが、それぞれの時間と場所の中で記憶として残るものとなるのだろう。 

バック・ストリート・ボーイズ「I Want It That Way」

 インターネットのホームページを通じてある人から「バック・ストリート・ボーイズはいいですよ」というメッセージをいただいた。そのアーティスト名は聞いたことがあったが、どんなグループなのかよく知らなかった。その後、CDショップの試聴コーナーに並べてあったコンピレーション・アルバムに、彼らの1曲があった。それがこの「I Want It That Way」だった。ああ、この曲どこかで聴いたことある。確かドラマの主題歌に使われていたあの曲か、なかなかいいじゃん。ということでベスト盤(「グレイテスト・ヒッツ・チャプター・ワン」CDとDVDの2枚組で2650円)を新譜で買うことにした。ライナーノートによれば、彼らは1995年にアメリカでデビューしたコーラスグループ。デビュー当時は、本国ではあまりパッとしなかったようだが、ヨーロッパ、カナダ、日本で次第に人気が出て、1997年、全米シングルチャートで「Quit Playing Games With My Heart」が最高2位を記録したそうである。そしてこの「I Want It That Way」の収録されている彼らの3枚目のアルバムは、世界で2000万枚以上を売り上げたとか(グラミー5部門にノミネート)。この曲でファンになった人も多く、彼らのことを「セカンドBSBマニア」と呼んだらしい。彼らはデビュー当時「第二のニュー・キッズ・オン・ザ・ブロック」と宣伝されていたようだが、ポップな路線よりも、ボーイズ・Ⅱ・メンのように、シックでソウルフルな指向を持っている。メロディアスで繊細な彼らの曲は、骨太ロック好みのアメリカよりも、むしろヨーロッパや日本で先行して人気が出たこともうなづける。僕も聴いていて、なんか胸がキュンとなるツボのようなもの(メロ)があるなと思った。こんな曲がバックで流れていれば、40代後半のおっちゃんもトレンディドラマの主人公気分になれるな、と。

ザ・バーズ「Mr. TAMBOURINE MAN」

 ザ・バーズのデビュー曲にして、全米・全英で1位を獲得した曲。ボブ・ディランの曲だが、本家ディランは、レコーディングはしたものの、今ひとつ納得出来ずにボツにしてしまった。その後、1965年にバーズがフォーク・ロックにアレンジして大ヒットした。その後、バングラデシュの救済コンサートで、ジョージ・ハリスン、エリック・クラプトンなどと共演したディランは、この曲をセッションで歌っている。
 以前トヨタの乗用車エスティマのCMで流れていたので、聴いた人も多いだろう。12弦ギターの印象的なイントロに始まり、抜群のハーモニーと、当時としては斬新なロック・アレンジを施し、1970年前後の「フォーク・ロック」というジャンルを確立した記念碑的楽曲である。このコーラスと、ギターアレンジは、リーダーのロジャー・マッギンがビートルズの映画『ア・ハード・デイズ・ナイト』を見てヒントを得たというが、この曲のヒット後、ビートルズは、「Mr. TAMBOURINE MAN」に影響されて「ノーホエア・マン」や「イフ・アイ・ニーディド・サムワン(恋をするなら)」を作った、というのだから、皮肉な結果というべきか。また、ディラン自身も、すっかりアレンジされた自分の曲を聴き、自分もロック色を取り入れた楽曲を作ろうと思ったらしい(どうやら当時の音楽シーンは、交流・影響が頻繁に行われていたようだ)。

 

ハミルトン、ジョー・フランク&レイノルズ「恋のかけひき」

 たまたま家にあった1971年『ミュージック・ライフ9月号』。ぱらぱら見ていると懐かしいミュージシャンのことが掲載されている。その中にこのグループの記事があった。このシングル盤は当時、新譜で買った記憶がある。まだ高校生であったのに、しかも他にも、たとえばスリー・ドッグ・ナイトやS&Gやエルトン・ジョン・・・・なんかのヒット・ミュージシャンを差し置いて(買わず)この無名のグループのシングルを買ったのである。僕はけっこうラジオをよく聴いていた。今週の洋楽ベスト20などの番組を毎週メモしたりしていた(なんとヒマな!)。いまとなっては何故このシングルを買ったのかは覚えていない。確かにこの曲はレコード会社自ら「ゴールド・レコードと認定する」というクレジットを表記し、実際ビルボード誌で3位になるほどヒットした。日本でも結構流れていた。しかしなにゆえにわざわざ買ったのだろう。そんなにお小遣いもあったと思えないのに。今、そのことを想像するに、きっとラジオで過大なPRがあったに違いない、と思う。「すごいグループが現れた」とか「空前絶後の名曲」とか「日本での大ヒット間違いナシ」などの解説につられて買ったに違いない。僕は性格的に人が「これはイイ」と言ったことを頭から信じる癖がある。別の言い方で感化されやすいとも(いや単純なのである)。
 このバンドはアメリカ・ウェストコースト出身の3人組。3人の名前をそのままグループ名としている(4人いるような並びだが真ん中の人はダブル・ファースト・ネームなんだそうだ)。少し低いブラスでイントロが入り、はじめから重厚なコーラス(ハモリ)とピアノが加わる。爽やかだかコクがあるサウンドという雰囲気だ。また中途で少しスローなメロディに変化し、またブラスがかぶって盛り上がる。なかなかの名曲だ。

 

ビートルズ「OH!DARLING」

 数年前、朝日新聞の夕刊に、アルバム『アビー・ロード』のジャケット写真(有名な「横断歩道を渡る4人」の写真)が、イギリスだったかアメリカで、ポスターに使われた際、ポールが右手に持っていたタバコを、CGで画像処理して消してしまった、という話題が掲載されていた。なんでも禁煙団体からの抗議によってポスター会社が消したということで、放置しておけば、先頃の肥満の原因はマクドナルドに責任、みたいに裁判になったかもしれない。
 「オー・ダーリン」は、その『アビー・ロード』からの1曲。このアルバムは1969年9月に英国、10月には日本でリリースされた、ビートルズ最後のアルバムである(セールス的に最後になったのは『レット・イット・ビー』であるが、こちらは諸般の事情により発表が遅くなっただけ)。倦怠感が頂点に達していた時期、スタジオ一発セッションとして企画していたアルバム『ゲット・バック(のちにアレンジを加えられて『レット・イット・ビー』となる)』の編集も遅々として進まず、いよいよ解散か、と言われ、ポールの主導により作られたのである。そして楽曲の完成度、バランス、録音技術、プレイヤーのバランス等々、何をとってもビートルズの最高傑作アルバムと評されている。そんなビートルズがなんで解散?と思ってしまうが、「最後だ」ということで、メンバーそれぞれが、持てるものすべてを放出した、のかもしれない。この「オー・ダーリン」のボーカルは、ポールである。少し絞り出すような声で力強く歌われている。ライナーノートによると、ポールはこの曲のために、早くからスタジオ入りし、何度も歌い込み、少し声をつぶしてから録音したという。そしていくつかのテイクの中には、ジョンがコーラスをつけたものがあったようだが、そのテイクは使われず、ポールのボーカルをダブルトラックで録音したものが採用された(ジョンのコーラスバージョンもそのうち日の目をみることになるだろう)。この曲はロックンロールの部類に入るだろう。スローなテンポでカッティングが入り、だんだんと盛り上がる。数年前に出されたベストアルバムには入っていないが、いい曲だ。ビートルズに影響を受けた日本人アーティストも多いが、あの「ビッグな矢沢」が在籍していたバンド、キャロルの曲に「愛の叫び」という曲があるが、これなどは「オー・ダーリン」そのまま(のような気がする)。

                                ☛☛☛ ◇関連ブログ◇

ザ・ビートルズ「バック・イン・ザ・U.S.S.R.」

 U.S.S.R.とは当時のソビエト連邦共和国(現ロシア)のことである。アメリカで大ヒットしたビーチ・ボーイズの「バック・イン・ザ・U.S.A.」というサーフィン・ロックのパロデイということになっている(ポールの作品でボーカルもポール)。サウンド的にもジョンとジョージのコーラスはビーチ・ボーイズ風ではあるが、曲調としてはロックン・ロールである。曲の冒頭部分と曲間に入る飛行機の効果音が印象的。「ついにソ連に帰ってきた、ソ連の懐かしい仲間たちよ(要約)」といった内容。1968年11月に発売された2枚組アルバム『ザ・ビートルズ』の1曲目に収録されている。このアルバムはイギリスのメロディ・メーカーで10週連続1位を記録した驚異的アルバム、それも2枚組、そのトップがこの「バック・イン・ザ・U.S.S.R.」である。シングルとしては1976年に出たアルバム『ロックン・ロール・ミュージック』からのカッティングでイギリスのニュー・ミュージカル・エキスプレス(NME)で18位の記録がある。ポールは先に述べたように、ビーチ・ボーイズのパロディとして作品化したようだが、ジョンは、この歌詞の内容を真剣に(アメリカ批判の)メッセージとして考えていたようで、こんなところにも曲に対するポールとジョンの考え方の違いが出ている。この曲の担当楽器も面白い。ポールはボーカルとピアノ、ギター。ジョージはベース。ジョンは6弦ベース。どうりでブンブンとノリが良いはずである。
 その昔(20年ほど前)、京都の老舗ライブ・ハウス「磔磔(たくたく)」では、ちょっとメジャーなバンドが来て、大いに盛り上がって楽屋にプレイヤーが引っ込み、会場がアンコールの手拍子が始まるかどうかの微妙なタイミングで、この「バック・イン・ザ・U.S.S.R.」をかけていたことがある。少しずつボリュームが上げられ、客席のアンコールの拍手も、そのリズムに合わせてだんだんに大きくなる。ちょうどアンコールの手拍子に合うし、トータル時間が3分弱というのもちょうど良いのである。

ビートルズ「Let It Be」

 1970年に公開された映画「レット・イット・ビー」で紹介された同名アルバムに収録の曲。ビートルズの後期代表作。シングルカットされているが、アルバム版とは少しリードギターのメロディが違う。アルバムの方はハイポジションのチョーキングを多用した変化に富んだアレンジなのに対して、シングルの方はブルーススケールというべきか、ややマニアックな弾き方で、落ち着いた感じのアレンジになっている。
 何年か前、テレビでクラシックの指揮者(たぶん小澤征爾)が、ビートルズの曲などを解説していて、この「Let It Be」に触れたとき、「この曲を作ったとき、もうビートルズは終わっていた」という発言をしたのをしっかり憶えている。つまり、それまでいろんな試みをし、また多くの楽曲を提供してきたビートルズだったが、この曲はその最後を飾るにふさわしい曲、それだけ完成された曲、というふうに位置づけたのだ。その完璧さのあまり、これを越える曲は作れないはずだ、という内容であった。僕はなるほどそんなすごい曲なのか、と改めて思った。ちょうどこの曲がヒットしていた頃(なにしろ僕はリアルタイム経験世代である)、東芝のステレオ(家具調の大きなやつ、確かボストンとかいう名前のステレオではなかったか)のCMにこの曲が使われていた。しかも演奏しているビートルズの映像も入っていた。断じてBGMではなかった。今思えばなんと贅沢なCMだと思う。いまのCMにそんな大物は使わないし使えないだろう。このCMを聞いてレコード屋に走った人が全国に何人いただろうと考えてしまう。またこのジャケットも印象的だ。ビートルズは常に4人、4等分、というこれまでのジャケットデザインを踏襲し、そのまま四角に等分されている。ちなみに我が家の居間にかかっている時計のデザインはこの「Let It Be」のジャケットである。(ただこの時計、背景の写真の関係で針が見にくい)

 

ビートルズ「ゲット・バック」

 1969年全米で6週連続トップとなったビートルズ後期、というより解散間際の作品。そのタイトルどおりビートルズがふたたびバンドとして復活することを歌った。「帰れ、帰れ 元いたところに帰れ」という内容である。この曲はアルバム「Let It Be」に入っているが、始めアルバムタイトルは「Get Back」になる予定であった。ところがプロデューサーの意向により「Let It Be(なすがままに)」に変更されたのは、ビートルズの解散間近な状況を表すエピソードかもしれない。この曲でピアノを弾いているのはポールでもジョンでもない。ビリー・プレストンというR&Bのミュージシャンであり、シングルのクレジットにも「The Beatles with Billy Preston」とある(ちなみにLet It Beのピアノもこの人)。そしてこの曲はスタジオ録音だが、ライブ演奏のようにして一発で録音されたらしい。話声なども入ったりしているのはその関係のようだ。そしてエンディングが長くなりすぎて、シングル・カットの際には、フェイドアウトされたという。
 ずいぶん前の話だが、職場のピアノの上手いMさん、軽音楽部の学生さんなどとバンドをしたことがあった。その時、この「ゲット・バック」をやったことを思い出す。そのMさんは、ビリー・プレストンばりに自前のFender Rhodesを弾いてくれて、大いに完コピ感を満喫したものだった。その後、バンドで集まることも少なくなり、Mさんが結婚を機に退職される頃に「このFender Rhodesですが、持って帰ると部屋が狭くなるので、ちょっと預かっておいてもらえます」という言葉で、我が家に置いたままになっている。もう20年ほど経過しているのだが・・・。

ビートルズ「ヒア・カムズ・ザ・サン」

 アルバム『アビィ・ロード』に収められている1969年、ジョージ・ハリスンの作品。ジョージは、この曲を親友のエリック・クラプトンの家に遊びにいったときに書いたという。クラプトンの家の庭で、ジョージは解放感を感じてこの曲のインスピレーションがあったと。アコースティック・ギターの爪弾きで始まるイントロ、メジャー・コードで、さらに「sus4」という装飾コードを多用して、より明るく、フォークっぽいサウンドになっている。また音階メロディが流れるような繋がりのある効果を出している。少しギターをやった(といっても僕ら中高年世代の)人なら、この音階メロディを練習した経験があるのではないだろうか。かくいう僕も、このメロディは、何度も繰り返し練習した。そして今でもギターを抱えるとついつい手が勝手に動き、この「ヒア・カムズ・ザ・サン」のフレーズを弾いてしまう。そして全体の曲構成をしっかり把握していないため、一度弾き出すと、永遠にフレーズの繰り返しが続き、曲が終わらなくなってしまうのである。そんなメビウスの輪のような曲なのだが、不思議と飽きがこないのである。

ビートルズ「ザ・ロング・アンド・ワインディング・ロード」

 解散間近と迫った時期に出たアルバム「レット・イット・ビー」に収められているポールの作品。ポールは、数年前、日本に来て、ビートルズ世代を大いに沸かせたが、この曲はお気に入りの曲のようで、ウィングスになってからも必ずといっていいほど歌っている。
「君の扉へと続く 長く曲がりくねった道・・・」という出だしの歌詞が印象的だ。この曲が収められているアルバム「レット・イット・ビー」は、当初「ゲット・バック(=原点に戻れ)」というタイトルになるはずだった。そしてコンセプトとして、全曲をセッション(一発録音)形式にするつもりであったらしい。当時のプロデューサー、ジョージ・マーティンの呼びかけのもと、アップルスタジオでセッションは進められた(1969年)。しかし、この時期はメンバーの感情的かつ志向的対立が目立ってきていた。それは映画「レット・イット・ビー」の中でも見て取れる。レコーディングなのだが、散漫なセッションとしかならず、膨大な時間の浪費、テープの浪費を繰り返した。そしてこのアルバムの制作は一時中断した。
 その放置された幻のアルバムタイトル「ゲット・バック」のマスターテープは、翌年、名プロデューサーであるフィル・スペクターの手により、「レット・イット・ビー」と名前を変え、演奏もオーバーダビング(追加録音)を施し、世に出ることになった。しかし・・・・。
 この「ザ・ロング・アンド・ワインディング・ロード」は、ビートルズの数あるヒットの中でもベスト・バラードであろう。この曲の収められているベスト2枚組CD(青盤)のライナーノートには次のように書かれている。
 
 ポールは「誰もが経験する悲しみ、歩いていかなければならない長い道のり」を歌っていると発言しているが、ポールの心のなかに自分自身の歩んできたビートルズの「長くて曲がりくねった道」を思い描いていたことは明らかだろう。(中略)しかしこの「青盤」に収録されているテイクは、フィル・スペクターの手で、イージー・リスニング風のサウンドに変えられてしまっている。ザ・ビートルズの歴史を描いた映画音楽のラスト・シーンにはうってつけかもしれないが、ポールはこのアレンジに憤慨した。ポールは機会あるごとにこの曲を演奏し、オリジナル・テイクを披露している。ジョージの生ギターによるコード・ストローク、レスリーにつないだエレキ・ギターによるリード・プレイはすべてカットされ、ビリー・プレストンのハモンド・オルガン、ポールのピアノもほとんど聴こえない。オリジナルどおりに聴こえるのはジョンの6弦ベースとリンゴのドラムだけ。(以下略)
 
 そう書いてある。恐らくフィル・スペクターは、アルバムに入れる楽曲としての質を高めようとして、または全体のバランスを考えて、ストリングス主体のバージョンにしてしまったのであろう。プロデューサーとして、そのことが良かったのか悪かったのかは、きっと意見の分かれるところだろう。それにつけてもジョージのギターやポールのピアノが聴けるというバージョンを聴いてみたいと思っていたら、その音源があったのである。1995年11月、『ザ・ビートルズ アンソロジー』というプロジェクトのもと、既に他界していたジョン・レノンのデモ・テープを使ってポール、ジョージ、リンゴの3人が新しく音を重ね、新曲を完成させた。「フリー・アズ・ア・バード」である。この曲を含め、未発表曲を収録したアルバム「アンソロジー1(2枚組)」が発売された。このアルバムは1週間での売り上げ記録としては世界最高で、その影響からビートルズへの関心が高まり、アルバム・チャートの50位までの中に、ビートルズのほとんどのアルバムが入るほどのブームとなった。その翌年1996年3月には「リアル・ラブ」を収録した2枚組「アンソロジー2」が発売。少し遅れて同年9月にこのプロジェクトの完結編となる「アンソロジー3」が発売となった。この3枚目(というか2枚組ずつなので5、6枚目というべきか)には、新しい曲は収録されていないが、ビートルズの最後の時期の未発表曲(バージョン)が中心にまとめられている。1969年1月30日、アップル・ビルの屋上で演奏され、警察が演奏中止を宣告する直前に演奏された(映画にも使われた毛皮のコートを羽織って寒空の中演奏している例の映像)「ゲット・バック」もこのアルバムで初めてリリースされた。とても貴重な音源だ。
 その「アンソロジー3」に、手を加える前の「ザ・ロング・アンド・ワインディング・ロード」が収められている。確かにポールのピアノ弾き語りに加え、ジョージのアコースティック・ギターのストローク、ビリー・プレストンのジャジーなオルガン(ベースはなんとジョン・レノン)などがはっきりと聴きとれる。しかも正規盤ではカットされているのだろう、ポールのアドリブ的なボーカル(歌と歌の間に入っている掛け声のようなものまで)も入っている。ストリングスに施された方のバージョンと聞き比べて、楽曲的には荒削りさは免れない面があるかもしれないが、シンプルな編成のバンド演奏としてみれば、こちらのバージョンも新鮮である(ただ売れる曲、という観点でみれば、ストリングスが入っているバージョンはそれなりの完成度の高いものだと思うが)。


 

ビートルズ「スロウ・ダウン」

 映画『バック・ビート』のエンディングに流れる曲。オリジナルは、R&Bのラリー・ウィリアムズ(1958年発表)。ビートルズは、それをカバーして、1960年から1962年にかけてステージで演奏していた(ビートルズがレコードデビューするのは1962年末なので、この曲はそれ以前のバンド時代に演奏していたもの。したがって代表的なアルバムには未収録で、聴くことが出来るのは編集版アルバム『PAST MASTERS VOL.1』に収められているもののみ)。
 『バック・ビート』は、ビートルズが1960年~62年に活動したその時期の実話をもとにした映画である(1994年制作)。ビートルズが題材になっているが、主人公はジョンでもポールでもない。オリジナル・ビートルズとして短期間だったがベーシストとして加入していたスチュアート・サトクリフとその恋人(後に妻)のアストリッド・キルヒャーのラブ・ストーリーである。もちろんビートルズの各メンバーを演じる役者たちが演奏する初期ビートルズのロックンロール・ナンバーもふんだんに盛り込まれている音楽(ライブ)映画でもある。
 ビートルズのメンバーは、リンゴ・スターの加入前のドラマー、ピート・ベストがよく知られているが、このスチュアートの存在については、あまり知られていない(もっともこの映画の公開によって知られることになったであろうが)。彼は1940年生まれで、アートスクールでジョン・レノンと同級生で、すぐに二人は親友になった。ジョンは、既に加入しているポールとジョージに加えてスチュワートを誘ったのは、音楽的才能を見出して、ということではなかったようだ。どちらかというと彼の絵の才能と激しい感性を評価して、ということだったらしい(なんともジョンらしい発想か)。スチュアートは自身が絵画展に出品した絵の賞金でベースを購入し、最初はステージ上でもベースの演奏に自信が持てず、一人後ろを向いて弾いていたらしい。
 スチュワートは、ビートルズ・デビュー前のドイツ、ハンブルグのライブ・ハウスで、2歳上の写真家アストリッドと知り合い、恋に落ちる。自然にアストリッドはビートルズに帯同して写真を多く撮影することになる(実際に当時の写真は多く残っているという)。またスチュワートも、アストリッドをモデルにした絵画を描くようになる。知り合って2ヶ月後に二人は婚約する。余談であるが、ビートルズのトレードマーク、マッシュルーム・カットも、この映画によれば、アストリッドがスチュワートの髪をあのようにカットし、それに影響された他のメンバーも真似しだしたということのようだし、初期のレザー・ジャケットや襟なしスーツも、アストリッドの影響だったという(この映画は監督と脚本を手がけたイアン・ソフトリーがアストリッド本人から詳細なエピソードを聞き取り完成させたものなので、多少の脚色はあってもほぼ真実に近いものである)。
 1961年になってスチュワートは、バンドを離れて、アーティストとして生きていくことを決心する(ビートルズにベーシストは二人も要らない、映画の中ではこの「スロウ・ダウン」を演奏してベースをポールに手渡す場面がある)。スチュワートは、ビートルズを離れて、ハンブルグに残り、アートスクールにも入学することになった。もちろんアストリッドと一緒の生活をする為に。しかしその年の暮、原因不明の病気に襲われることとなる。映画の中で、病院でスチュワートの検査をした医師が次のように言う。「のんびりやりなさい(slow down)。人生は長い(Life is long)」そんな医師の励ましの言葉も空しく、翌年の1962年4月、帰らぬ人となってしまう(死因は脳溢血)。ビートルズがブライアン・エプシュタインに見出されてレコード・デビューするわずか数ヶ月前の出来事であった。
 スチュワートが、もし生きていたならば、ジョンと親しかったこともあり、レコード・デビュー以降のビートルズのアルバム・ジャケットも、きっと多くを手がけていたであろう(ハンブルグでスチュワートとアストリッドを引き合わせたクラウス・フォアマンという画家は、アルバム『リボルバー』のデザインを手がけたという事実がある)。「のんびり」とした「長い」人生ではなかったが、栄光のビートルズの歴史の中には、そんな人物が居たことを、ここで紹介しておきたかった。

 

 

ビージーズ「恋のナイトフィーバー」

 1970年代の後半、ディスコ・ブームがあった。この曲もジョン・トラボルタ主演の「サタディー・ナイト・フィーバー」の映画で流れていた。ビージーズが結成されたのは1958年というから昭和33年だ。相当息の長いグループである。日本で知られるようになったのは、それから10年後の1967年の「マサチューセッツ」のヒットからであろう。その後も「ホリディ」「若葉のころ(以前、野島伸司のドラマに使われていた曲)」「メロディ・フェア(小さな恋のメロディという映画のテーマ)」などの静かでメロディアスな曲調のヒット曲がある。その一連のイメージを打ち破って、ディスコで踊るための音楽として、リズミカルでアップテンポの「恋のナイトフィーバー」が出てきたときは、えっ、これがビージーズ?、という感じであった。当時、映画を見たわけではないので、どういう場面で使われていたのか知らないが、テレビやラジオでもやたらに流れていた。
 この曲で強烈な印象があるのは、ある深夜ラジオの番組である。パーソナリティーは、笑福亭鶴瓶であった。リスナーの女の子が電話をしてきて、鶴瓶とドラマ仕立てでデートをする、というものだった。毎回(毎週)電話口のリスナーの女の子が演技力(声)を発揮して、鶴瓶と恋人同士の会話をする。そしてしばらくして鶴瓶が言う言葉は「ほらあそこにネオンが見える」「一緒に入ってもええか」とふる、女の子は「恥ずかしい・・・」とか「・・・いいわよ」とかいうリアクション(声)をして、ことに及ぶわけだ(もっとも電話での話だが)。そのコーナーで流れていたBGMがこの「恋のナイト・フィーバー」だった。当時、僕はそのようなH?な経験をしたことがなかったので、深夜ラジオを聴いて悶々としていたことが思い出される(こういった聴覚にうったえかけてくる刺激は視覚から受けるもの、たとえばヌード写真なんかより時として強烈なインパクトを与えてくれる)。

PPM「風に吹かれて」

 ずいぶん以前に「金曜日の妻たちへ」というテレビドラマが何シリーズかあった。「金妻」と略称してブームになった。その何回目かのシリーズのテーマソングがPPMの「風に吹かれて」であった。ドラマは不倫、浮気、家庭崩壊、といったドロドロとしたテーマだったが、テーマソングが爽やかで軽い感じなので、見る者に明るく健全な印象を与えていたのではなかったかと思う。
 PPMは、女性ボーカル(マリー)に、男性二人(ピーターとポール)のギターとウッドベースの3人編成のバンドだ。最小限の演奏楽器、コーラスアレンジで、ソロとは一味違う、リズミカルでハーモニー重視の演奏を聴かせてくれた。1960年代のフォークソングのブーム以降も、日本でも根強い人気があり、時折テレビの音楽番組(ミュージックフェア)などでも、その姿を見ることがあった。この曲は言わずと知れたボブ・ディランの名曲だ。一見すると自然を歌った曲かと思うが、ディラン特有の風刺を利かせた反戦歌である。当時のフォークソングは、プロテストソングと呼ばれるのが普通で、ジョーン・バエズしかり、PPMしかり、曲調やタイトルにストレートな表現はないものの、ほとんどが反戦歌だった。ディランのオリジナルの個性的な歌い方と比べPPMの「風に吹かれて」は、メロディをしっかりとアップテンポで歌い上げている。「金妻」にディランのバージョンを使っていたら恐らくかなり重々しいドラマに仕上がっていたことと思う。

ビル・ウィザース「LEAN ON ME」

 ビル・ウィザースは1971年にデビューした息の長いボーカリストである。1972年にこの「リーン・オン・ミー」がヒット後は、グローヴァー・ワシントンJr.、クルセダースなどのボーカリストをつとめていた。この曲は、1987年にクラブ・ヌーボーの手により、カバー曲として全米1位のヒットになっている。僕としては、このリバイバルよりも、日本人歌手によるカバー曲として知ることとなった。それは、下北沢のジャニス(=ジャニス・ジョプリン)と言われていた金子マリによるものだった。しかも日本語バージョンだった。何年か前、BSで「ザ・レコーディング」という番組があった。キーボード&アレンジに井上鑑、ドラムスに村上ポンタ秀一、ギターに大村憲司、ベースに高水健司、ピアノに中西康晴、コーラスにチャカ(PYS)といったミュージシャンが、毎回、ゲストを呼び、主にカバー曲をレコーディングするという番組である。金子マリがゲストのとき、この「リーン・オン・ミー」だった。渋い曲だった。

ピンキー&ザ・フェラス「マンチェスターとリヴァプール」

 この曲、作者は世界的な大ヒット「恋はみずいろ」の作者として知られるフランス人のアンドレ・ポップ。フランスの曲なので英語詞をつけて歌われている。歌っているのはスコットランド出身の女性1人と男性5人の計6人組のグループ、フェラス(後にピンキー&ザ・フェラスに改名)。彼らの1968年のデビュー曲である。本国やアメリカではヒットせず、日本だけでヒットしたらしい。オリコン6位、売り上げ31万枚というビッグヒットだった。当時、日本の歌謡界に「恋の季節」でデビューしたピンキーとキラーズというグループがあった。この「マンチェスターとリヴァプール」を歌ったフェラスも、たまたまボーカルの紅一点、Caroline Gardnerはピンキーと呼ばれており、日本のグループのヒットにあやかって、ピンキー&ザ・フェラスになったとか。曲調はゆったりとしたフォーク・ポップス。アレンジをもう少しこってりすれば、日本の民謡にも通じるメロディだが、そこをあっさりと歌いあげている。

ピンク・フロイド「吹けよ風、呼べよ嵐/One Of These Days」

 邦題は名訳ではないだろうか。プロレス・ファンならずとも、悪役レスラーのアブドラー・ザ・ブッチャーの登場テーマ曲として知られている(曲中に「いつの日か、お前のことをズタズタにしてやる」というセリフが入っているらしい)。今からどんな悪役が登場するのだろう、どんな恐ろしい場面が展開していくのだろうか、というプロレスの演出、プロローグとしては、ぴったりの選曲だと思う。
 ピンク・フロイドは、1965年に、ロジャー・ウォーターズがリージェント・ストリート工芸学校で建築学を学ぶ仲間、ニック・メイスンとリック・ライト、そして高校時代からの友人のロジャー・キース・バレットを誘ってバンドを始めたのが始まりだった。ちなみに、名前の由来は、ジョージア州出身の2人のブルース・シンガー、ピンク・アンダーソンとフロイド・カウンシルの名前から取ったという。
 この「吹けよ風、呼べよ嵐」は、1971年の彼らの6作目のアルバム『MEDDLE(おせっかい)』に収められている。全英チャートで3位。全米チャートで70位。その前作アルバムである『原子心母』は、彼らの代表作として挙げられるが、次作の『おせっかい』は、1曲目の「吹けよ風、呼べよ嵐」以外はあまりインパクトのない曲が並び、評価は低かった。ただこの曲だけはシングル・カットされて、日本でもヒットした。

ブッカーT&MG's「グリーン・オニオン」

 現在は古着屋をしている友人は、かつて(学生時代に)喫茶店の鬼として、京都中の喫茶店に行きまくり、結局、自分で喫茶店を作ってしまった男だ。しかも建物まで自分で造ったのである。そしてそこで流す曲は、アメリカ南部のブラック・ミュージックのレコードがメインだった。彼の喫茶店へ行くと「通」な音楽話をよく聞いた。そのお勧めはスタックス・レーベルに属するミュージシャンであり、中でもステイプル・シンガースはお気に入りとのことであった。だからよく聴かされた。
 そのアメリカ南部のソウル・ミュージックのレーベルであるスタックスは、指を鳴らす手がデザインされた絵柄で、知っている人には馴染みのレーベルだ。このレーベルに属するシンガーのバックを勤めていたのがブッカーT&MG'sというバンドである。キーボードにブッカーT、ギターにスティーブ・クロッパー、ベースにドナルド・ダック・ダン、ドラムスにアル・ジャクソンというそうそうたる面子である。この「グリーン・オニオン」はインストルメンタルの曲で、ソウル系音楽を知らない人でも、一度は耳にしたことのある曲だ。人によっては「えっ、これってJAZZじゃないの?」という反応も返ってきそうだ。キーボードはレスリー・スピーカーを通したようなオルガンの音色。同じ旋律を繰り返し楽器を回していく。ノリのいい曲だ。ブッカーT&MG'sは十数年ほど前に忌野清志郎のバックでソウルの名曲をカバーしたアルバムに参加している。そのレコーディングの関係でか清志郎はメンフィスの名誉市民になった。
 僕の友人は喫茶店をはじめたはよかったが、今の若者の喫茶店離れ(僕らの学生時代はなにかといえば喫茶店へ行ったが、今の若者はコンビニで済ますし喫茶店などへはあまり行かないらしい)によって儲からなくなり、副業的にやっていたアメリカ古着の販売をメインにするようになった。しかし業種は変わっても流れている音楽はディープなソウルミュージックで、もちろんステイプル・シンガースなども流している。

フォリナー「アイ・ウォナ・ノウ・ワッツ・ラブ・イズ」

 フォリナーはイギリスのプログレッシブロックの大御所、キング・クリムゾンのメンバーの一人が1977年に結成したアメリカン・ロックのグループ。他にもいろいろヒット曲はあるだろうが、僕はこの曲ぐらいしか知らない。京都のローカルテレビ、KBS京都で、だいぶ以前のことだが、ビデオクリップを集めただけの番組「ソニーMTV(ミュージック・ティー・ヴィー)」をやっていた(独自の番組ではなく東京のキー局が系列局へ配信していたのでほぼ全国的に同じものが放映されていたはず)。今はCSとか見れば、その手の番組はいっぱいあるが、今から15年以上前は貴重な映像だった。せっせとビデオ(3倍モードで6時間)に録画してためていた。また当初は『FMレコパル』などの放送曲目一覧などをテープのケースに貼り付けたり、えらく手間なことを嬉々としてやっていた(あのパワーは今いずこ?)。家の中を探せば10本以上はあると思うが、所在はわからない。
その「MTV」で、「アイ・ウォナ・ノウ~」のビデオクリップを見た。建築現場の人々がスローモーションで映し出されていた記憶があり(意味不明)、最後の合唱とソウルフルなボーカルが交互にフェイド・イン、アウトする。この曲は、前段のしんみりとした部分が導入で、徐々にコーラスから合唱団が加わり、その合唱にボーカルのアドリブ的な、ソウルっぽい歌が絡んでいく。これを聴いたとき、なんと壮大な曲だろうと思った。また楽曲としても完成されたものを感じた。アメリカン・ロックのフォリナーからすれば、異色のヒット曲ではなかろうか。

フランシス・レイ「ある愛の詩(LOVE STORY)」

 1970年に映画化されたタイトル曲。その後、スタンダードの名曲として、多くの楽団、歌手(アンディ・ウィリアムズが代表格)がとりあげている。が、なんといっても、フランシス・レイのものには及ばないだろう。1970年前後は、アメリカ映画は「ニュー・シネマ」と呼ばれた時代。「俺達に明日は無い」「イージー・ライダー」「いちご白書」等々、これまでの映画になかった手法、ストーリー展開、映画音楽としてのグレードに特色がある。この「ある愛の詩」もニュー・シネマの範疇に入るだろう。原題どおりのラブ・ストーリーだが、ハッピーエンドではないところ、主人公が悲嘆に暮れて、しかし自分の選んだ道は間違いではなかった、というラストが印象的な作品。
 あまりにも有名なセリフ「愛とは決して後悔しないこと(Love means never having to say you're sorry)」は、最後まで結婚に反対していた父親に向けて言った言葉である。名門一家のオリバーとイタリア移民の娘ジェニーは、その身分差ゆえに、オリバーの父の反対を押し切って駆け落ち、結婚。オリバーは法律学校へ、ジェニーはその学費と生活費の為に働きに出る。つらくても楽しい日々、しかし、ジェニーは不治の病に、そして死んでしまう。そこで、それみたことかと言う父親に対して・・・・、という場面となるのである。
 僕はこの映画を観たかどうかは定かではない。しかしこの小説はしっかりと読んでいる。中学3年生、ちょうど高校受験の頃だった(そんな大事な時期に読んでいる場合ではないだろう、と今思う)。自分で小説を買ったのか、誰かに借りたのかははっきりしないが、とにかく、小説を読みながらボロボロと涙が出てきたことだけは、はっきりと憶えている(男のクセになんともみっともないが)。いま思えば、このストーリーは、悲恋の定番、よくある展開、たかがフィクション、と言ってしまえば簡単だが、当時は多感でナイーブな年頃だった。そんな中学生が、遠い国で作られたラブ・ストーリーに涙したのである。ついでに思うが、やはり僕はいまだに涙もろい(涙腺が弱い)ところがある。小学校の音楽発表会での大きな声でのメッセージを聞くとき、高校野球決勝後の行進の場面にアナウンサーが語りを入れるとき、テレビドラマ「はぐれ刑事」での藤田まことが犯人に言葉をかけてやるとき・・・・・。涙腺が弱いのか、視界がぼやけてくるのである。ただ、涙腺を刺激するポイントは、中学生のころと、ややズレが生じていることは確かだが。

 

フランシス・レイ「白い恋人たち」

 雪は、周りの景色を白いベールで一瞬に変えてしまう。なぜか雪降りの日はわくわくする。子供の頃の記憶が続いているのだろう。何か現実とは違う世界にひとときの間、酔いしれる。この曲は、1968年にフランスで行われたグルノーブル冬季オリンピック記録映画のテーマソングである(札幌オリンピックの前の大会だ)。フランシス・レイは楽団の名であり、バンドマスターの名前である(レイは1932年生まれ、エディット・ピアフのピアノ伴奏者をしていた)。映画音楽、イージーリスニング音楽の草分け的存在。有名なところでは、映画「男と女」の主題曲がある。「白い恋人たち」のメロディは、僕の子供の頃の雪の記憶をよみがえさせる。オルガンの淡々としたメロディは、とてもフランスの音楽という感じで、心を和ませる。そして、冬季オリンピック(グルノーブル大会)の記憶はまったく無いのに、この曲を聴くと、しんしんと降りつもる雪のイメージが彷彿としてくる。
 その後、日本語の歌詞も付けられて、スタンダード・ナンバーとなっている。「過ぎていくのね、愛の命も~♪」という曲として、比較的歌唱力のある女性歌手などが歌っていた。ただスポーツの祭典映画のテーマ曲にしては、とても「重い」歌詞のようにも感じた。オリンピックで出会った二人の別離を雪が溶けることになぞらえているのか・・・・。僕は、歌詞をつけて歌うよりも、フランシス・レイ楽団の淡々とした演奏だけのものが好きだ。

フリート・ウッド・マック「オウン・ウェイ」

 何期前かは忘れたが、アメリカ大統領候補(たぶんクリントンか?)の応援ソングになった曲。1970年代のベストアルバムに数えられるだろうフリート・ウッド・マツクの「噂(Rumours)」の中の一曲である。内容はロック版「マイ・ウェイ」か。応援ソングに使われるだけあって、力強いリズムと、徐々にサビへもっていく盛り上がりの妙が印象的だ。この曲を「力強い」と感じるのはメロディの構成だけではない。ドラムスを担当しているミック・フリートウッドの、裏打ち的なドラミングが、まるで和太鼓のような雰囲気をかもし出し、聴くものをひきつける。
 1980年ころ、フリート・ウツド・マツクが来日したとき、ここ京都でもコンサートがあった。このバンドは、サンタナがカバーした「ブラック・マジック・ウーマン」のオリジナルのグループだったことでも知られているように、もとは(1970年代中期は)ブルースバンドだった。エリック・クラプトンとも交流のあったピーター・グリーンが初期には在籍していたので、何枚かのブルースアルバムを出している。が、1980年頃の「噂」「ミラージュ」などを出した後の、このバンドは、メンバーもがらっと代わり、正統派ロックバンド、いやポップスバンドになっていた。とても男二人で聴きにいくコンサートではなかった。この名盤「噂」のトリビュート・アルバムがある(比較的若手のグループが演奏している)。数年前に手に入れた。歌手やグループのトリビュートはたくさんあるが、アルバムのトリビュートというのはあまり聞いたことがない。それほど「噂」は出来が良かったものと思われる。こんなグループのフリート・ウッド・マックは一旦解散し、ボーカルのスティーヴィー・ニックスは一時期ソロとして何枚かのアルバムを出している。数年前に再結成をして、アメリカ西海岸、サンフランシスコなどで結構なオーディエンスを集めているらしい。


 

プロコム・ハルム「青い影」

 この曲がヒットしたのは1967年というから、今から30年以上も前だ。全世界でヒットしたこの曲は、また多くのミュージシャンにカバーされている名曲だ。ジョー・コッカーのカバーバージョンは結構好きな方である(僕の好きな上田正樹はこの「青い影」をジョー・コッカーのバージョンでカバーしているが、こういうのを孫カバーとでも言うのだろうか)。しかし、やはり、プロコム・ハルムのオリジナルは、いつ聴いても素晴らしい。何年たっても色あせない。この曲のベースになったのはクラシック、バッハの曲だという。オルガンのイントロで始まる印象的な旋律は、ソウルっぽいボーカルが始まっても終始この曲のバッキングになっている。ギターソロなどもなく、特に盛り上がる部分もなく、淡々と進んでいく。しかし聴くものを魅了する。このグループは「青い影」があまりにも大ヒットしたために、以降のアルバムで、そこそこの曲を出したが、一部のマニア以外には知られることはなかったようだ。まあ「一発屋」であっても、ここまで大ヒットし、名曲と言われれば本望だろう。
 

ベイ・シティー・ローラーズ「サタデーナイト」

 港町の流れ者、とでも訳すのだろうか、ベイ・シティ・ローラーズというミーハ―なバンドが歌ってヒットしたのが「サタデー・ナイト」。このバンドのオリジナルだったのかカバーだったのかはわからないが、耳に残る曲だった。「S・A・T・U・A・D・A・Y・night!」というベースとドラムのリズムに合わせた掛け声のあとメロディに入る曲で、楽曲としては面白いし、流れるような、追いかけるような後段のフレーズが印象的だ。ベイ・シティ・ローラーズは、いまから30年ほど前だろうか、全員タータンチェックの衣装に身を包んだ(ズボンのすそがやけに短かった)イギリスのロックバンドだった。とにかく日本では若い女の子の熱狂的な支持があって、とかく男子サイドとしては、少し身が引けてしまうようなところがあった。けれども、この「サタデー・ナイト」や「バイバイベイビー」のようなポップな作品も多く、今思えば、なかなかいい(選曲をする?)バンドかな、とも思う。

ベンチャーズ「京都の恋」

 1970年に「万博記念盤」と銘打って発表されたギター・インストルメンタル・バンドのヒット曲(原題は「Kyoto Doll=京人形?」)。同じ曲を日本人歌手の渚ゆう子が歌って、本家ベンチャーズ(オリコン19位)を抜きナンバーワン(オリコン1位)となった。ベンチャーズのサウンドは日本人好みで、このヒット以降、同じく渚ゆう子の「京都慕情」、欧陽菲菲の「雨の御堂筋」、小山ルミの「さすらいのギター」などのヒットがあり、また30年以上経った今でも毎年夏頃に来日して、各地(といってもけっこうローカルな場所=京都会館第一ホールなど)でコンサートをしている。ベンチャーズのサウンドは、今のインストルメンタル・ギターの原点であろう。キーボードが入ることはあるが、基本はドラム・ベース・サイドギター・リードギターの4つの楽器が、それぞれバランスよく自分の役割を演奏している。そして、メロディを弾くだけでなく、ギターが出せる効果音、テクニックを楽曲に合わせて、うまく使っている。ビーンという音をこもった音にするミュート。テケテケテケ・・・というクロマチック奏法。弦をこすりつけてキュッキュッという効果音・・・等々、ベンチャーズが紹介したギターのバリエーションは、日本のエレキ小僧に多大な影響を与えた。僕らの世代より、5歳くらい上の世代(よく言われる「団塊の世代」)は、ギターを弾く弾かないは別にして、みんな、そのサウンドに魅了されている。

ボストン「ドント・ルック・バック」

 ボストンについては、2作目の「ドント・ルック・バック」と4作目の「ウォーク・オン」を持っている。どちらも数回聴いた程度のアルバムだ。CDを探し出して、あらためて聴いてみた。ライナーノートなどを見、ネットでボストンファンのサイトなどをチェックしてみたら、「へ~っ」と驚くことがいろいろ分かって勉強になった。以下に紹介しておく。
 ボストンは1976年に「幻想飛行(Boston)」というアルバムでデビューしたアメリカのプログレッシヴ・ロックのバンドだ(このファーストアルバムは1000万枚のセールスを記録)。バンドとはいうものの、リーダーのトム・ショルツのワンマンバンドと言った方がいい。彼はマサチューセッツ工科大学を卒業したエンジニア。ポラロイド社に勤務する傍らで、趣味で自宅にある12トラックのレコーダーで、友人とデモテープを録音し、それがレコード会社に認められ、プロとしてデビューをした。ボストンのアルバムには必ず「No Synthesizers Used No Computers Used」というクレジットがあるらしい。つまりデジタル機器を使用したレコーディングはしない、という意味のようだ。あくまでも自身のギターにエフェクト(コーラスを多用)をかけて、アナログ的な録音をこつこつと重ねていく手法のようだ。したがって1曲を完成させるのに、途方も無い時間をかけるところは、音楽家というよりも技術者と言ったほうが良いほどだ。その完璧な仕上がりに、音楽評論家などからは「産業ロック」などと揶揄されているほどらしい。そのことを物語るエピソードとして、2作目(「ドント・ルック・バック」)のアルバムが出たのが1作目から2年後、3作目(「サードステージ」)はその後8年たって、4作目(「ウォーク・オン」1994年)もさらに8年のインターバル。20年ちかくの間にたった4枚のオリジナルアルバムしか出していない。4作目にはバンドのメンバーもすっかり変わってしまっているとか。
 このアルバムタイトル曲「ドント・ルック・バック」をあらためて聴いてみて、なるほどとても厚みのある演奏だということを感じた。また4作目の「ウォーク・オン」などと聞き比べて、サウンドが変化していなかったことにも気づく。耳触りの良いクリアなサイドギターとディストーションの効いたリードギターの絡み合うサウンドは、トム・ショルツの独壇場だろう。そしてこういうバンドは果たしてライブなどの一発ステージをこなすことはあるのだろうかと考えてしまう。しかし、これだけ凝ったアルバムが、いつでも聴くことが出来るのは素晴らしいことではないだろうか。「Don't look back」過去を振り返らず新しい我が道を行こう、という歌詞内容は、この曲を聴いて、自分への、また挫折しても前向きに生きていこうとする人への応援歌だと確信した。

ボブ・マーリー「ノー・ウーマン・ノー・クライ」

 本当なのか嘘なのかわからないが、レゲエは、アメリカ合衆国から流れてきたラジオ放送のブルース・ミュージックを聴いたジャマイカの人達が、よりリズミカルな音楽として作ったものだ、という。今では、ラップなどと共に、音楽のジャンルとしてレゲエ・ミュージシャンは多いが、古くはジミー・クリフと、このボブ・マーリーが有名だ。ボブ・マーリーは、1945年にジャマイカに生まれた。70年代後半には世界的にレゲエを有名にした立役者である。ジミー・クリフに比べ、より野性的な風貌、カリスマ的なメッセージは、今もなおレゲエの教祖的存在である。かのエリック・クラプトンもカバーしている「アイ・ショット・ザ・シェリフ」のヒットが有名だ。1981年、ジョン・レノンと同じ年に脳腫瘍で亡くなった。「ノー・ウーマン・ノー・クライ」はもちろん、レゲエだが、バラードの名曲だ。同じメロディ、同じコード進行の繰り返しなのだが、飽きない曲だ。この短いメロディがぐっと心に残る。とても好きな曲だ。

ボブ・ディラン「コーヒーもう一杯」

 1978年2月26日(日)は、僕にとって忘れられない日となった。ウッドストックコンサートで衝撃的デビューを果たしたボブ・ディランをナマで見、その声をナマで聴いた日であるからだ。このときのコンサートチケットをなぜか今も持っている(学生時代、壁に貼り付けたりピンで止めたりした変遷を経て、今はこの時の東京公演の模様を収録した2枚組アルバムに入れている)。そのチケットには日付とともに「松下体育館」「主催・毎日放送」「3階N列91番」「S¥4500」というクレジットが記されている。ちょうど僕は大学3回生のころだった。松下体育館へは京阪電車の枚方駅で下車して行った。詳しい道のりは憶えていないが、とにかくボブ・ディランである。ほとんどの人の波が、その方向へ向かっていた。そしてチケットにクレジットされた3階席は、途方も無くステージからは遠かった。いよいよディランが現れた。豆粒のような大きさであった。双眼鏡など持っていかなかったので、どんな表情をしているのか、まったく分かり様がなかった。それでも、あの偉大なるシンガー、ボブ・ディランがこの場に居て、歌を歌っている、という事実だけで、満足していた。1曲目は何だっただろう、「風に吹かれて」だったかもしれない。が、会場ではブーイングのような声が漏れ聞こえた。曲のアレンジがもとの曲からすれば、かなり大幅になされていて、ちょっと聴いただけでは、何の曲かわからなかった。いつものアレンジを期待していた客はそのギャップにブーイングしたのだと思う。
 この「コーヒーもう一杯」は、日本公演の前に出されたアルバム「欲望」に収められていた曲で、公演の前にもヒットしていた曲である(この公演時にはこれまたかなりアレンジが変えてあった)。この公演の前、京都駅の構内にディランの日本公演のでっかいポスターが貼られていた(通常のポスターの2枚分の大きさで「ディランに逢ったらよろしく」と書かれていた、ハッキリ憶えている)。それを見つけたとき、このポスターが欲しい、と思ったのだが、なにぶん根がまじめで、その足で駅長室へ行き、掲示期間終了後にもらう手続きをしたのである。ところが世の中そんなに甘くはなかった。その手続きをした翌日には、既に何者か(まあファンだろうが)によって持ち去られいた。昨日の時点で、自分も失敬しておけばよかったのに・・・。その時一緒にいた友人も同じことを言った。とてもくやしかった。

 

ポール・サイモン「母と子の絆」

 英題の「Mother and Child Reunion」というのはポールが立ち寄った中華レストランで目にした料理の名前だそうで、鶏肉と卵の調理されたもので、日本風に言えば「親子丼」ということになるらしい(ご飯の部分は無いとしても)。1972年のポール・サイモンとしてのS&G解散後のソロ第一弾『ポール・サイモン』に収録されている。その料理名にヒントを得た直後、飼っていた犬が死ぬという事件があり、それで、それまで肉親の死を経験したことがなかったポールが、あらためて家族の「絆(きずな)」をテーマとして曲を書いたのがこの「母と子の絆」らしい。曲目の解説にはポール・サイモンのワールド・ミュージックへの先駆的作品、レゲエのアレンジ、と書かれている。今でこそレゲエというものがミュージック・シーンでの大きなジャンルとなっているものの、1970年初頭ではまだまだ認知度は低かった。ジョン・レノンがソロでニューヨーク・ライブをした際にもしきりに「レゲエ・ミュージック!!」と叫んでいたが、同様に聴衆にはピンとこなかったはずである。「母と子の絆」がヒットしたあとで、日本ではちあきなおみによる「喝采」という曲が大ヒットし、その年のレコード大賞も受賞している。その「喝采」のイントロ部分と「母と子の絆」のイントロ部分がずいぶん似ていると盗作騒ぎになっていたことは、有名な話である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

YouTube
「汽笛は泣いて」

矢野絢子

Starting of travel

▼駅のページ 旅の始まり

JR嵯峨野線の駅 他
JR嵯峨野線の駅 他
亀岡駅
亀岡駅
京都駅
京都駅

京都駅

Kyoto
Station

東京駅
東京駅

太田へのメッセージ

<PR・私の友人の店

American Retro Plate

ホーム へ戻る