My Favorite SongsⅢ

私の好きなこの1曲 (★ま行~ +邦楽) ★あ行~さ行  ★た行~は行

★ま行

マーク・リンゼイとレイダース「嘆きのインディアン」

 1971年のヒット。ミディアムテンポの渋い曲とでも評しておきたい。特にインパクトのある楽曲ではないが、リードボーカルのマーク・リンゼイが「通好み」なアーティストであるので知る人ぞ知るグループである。マーク・リンゼイは、現在もソロのアルバムを出している。
 ちょうどこの曲が出た頃、僕は高校1年生であった。僕は市内でも田舎の方の中学校出身だったので、高校へ入って、他の中学校から来ている生徒(特に女子)は、きらびやかで、ハイカラ(ちょっと表現が古臭いか)な印象があった。その中に髪の毛がすごく長い女の子がいた。髪の毛の先端は足の付け根あたりまであり、不思議な雰囲気のする子であった。聞いた話だと、その子のお兄さんは、深夜放送のDJ(アナウンサー)をやっていて、我が高校の放送部のOBでもあるという。その関係でか、彼女は番組のグッズなどもさりげなく持っていた。ただ気になる女の子ではあったが、僕自身シャイな性格ゆえに、親しく話しをした記憶はない。ところが、ところがである、その女の子と何かの拍子に会話をしたことがあって、そのときの彼女の言葉が「マーク・リンゼイとレイダースの嘆きのインディアンはいい」というものだった。マーク・リンゼイとレイダース、それ何?という感じであったが、この曲は間もなくラジオなどのヒットチャートに登場することとなった。ヒットしはじめて、やっと彼女が「いい」と言っていたことを思い出した。やっぱりお兄さんが放送局関係者ということもあって、いろいろ詳しいのだろうな、と。そして、町の子は何でもよう知っとるなぁ、尊敬するなぁ、カッコいいなぁ、等々、という感想も持った。

マーヴィン・ゲイ「ホワッツ・ゴーイン・オン」

 マーヴィン・ゲイは1939年4月2日、ワシントンD.C.に牧師の息子として生まれる。3歳より、父の教会でゴスペルを歌い始めた。1958年、高校を卒業後、シカゴの人気グループ、ムーングロウズに、リード・ヴォーカリストとして加入した。1960年、結成したばかりのモータウン・レコードとソロ契約。翌年にデビュー。1970年、デュエットを組んでいたタミー・テレルが、ステージ上、マーヴィンの腕の中で倒れ、そのままこの世を去るという衝撃的な事件に遭う。マーヴィンは大きなショックを受けるが、1年後に心機一転、アルバム『ホワッツ・ゴーイン・オン』を発表。アルバムタイトル曲「ホワッツ・ゴーイン・オン」が大ヒットした。日本ではこの曲「愛のゆくえ」というラブソングのようなイメージとなっているが、内容は、1970年当時のベトナム戦争への反戦歌である。ベトナムからの帰還兵だった弟から戦場の様子を聞いて作った曲なのである。
「神よ、もうたくさんだ、戦争では解決にならない(要約)」という内容。この曲がヒットしていた1970年ごろは、僕はまだまだこの曲の良さは分からなかった。正直、けだるい感じの曲、といった印象しかない。それが、1977年、三重県の合歓の郷で行なわれたオールナイトのバンド・コンテスト、京都からエントリーされていたクルセママというアマチュアバンドの演奏する「ホワッツ・ゴーイン・オン」を聴き、なんてカッコいいんだろう、と思ったわけだ。このバンドは他にもジャクソン・ブラウンの曲なども演奏し、なかなか審査員の評価も高かった。ギターとかピアノをやっている人なら分かるのだが「メジャー・セブンス」というコードが多用されている。そのため、全体としては「モヤモヤ」とした印象なのだが、反面、シャレた感じがする。メロディラインも平坦だが、サビの「ホワッツ・ゴーイン・オン~」と繰り返す部分に力が入るし、またこの部分なくしてこの曲はありえない、という感じなのである。


 

ママス&パパス「夢のカリフォルニア」

 1965年のママス&パパスのデビュー曲。全米4位にチャートインし、日本でも大ヒットした。続いて「マンデー・マンデー」もヒット。ママス&パパスは、男女2人づつ4人編成のコーラスグループで、当時、サンフランシスコを中心としたフラワー・ムーブメントの時流に乗り、多くの若者に支持された。その後も次々とヒット曲を出し、アルバムも発表するが、アメリカでのその後のヒットに比べると、日本では「夢のカリフォルニア」以降に大きなヒットは無かった(と思う)。
 この曲がヒットしていた頃、僕はまだ小学生だった。ラジオをよく聴いてはいたが、そう頻繁にこの曲を聴いていたとは思えない。しかしこの「夢のカリフォルニア」は、とても印象に強く残っている。その理由は、当時の音楽シーンの中で、ピーター・ポール&マリー、ジョーン・バエズといったフォークソングから、フォーク・ロックという少し電気楽器やドラムスを取り入れた音楽ジャンルが生まれる、そういう時期だった。そのさきがけとなったのが、この「夢のカリフォルニア」だったからではないか。それゆえに、フォーク・ロックの代表曲として、ヒット以降も、使われ続けた(ラジオなどでよく流された)のではないか。というようなことを思う。
 とにかくこの曲はハーモニーが素晴らしい。歌い出しにかぶってコーラスが繰り返される、そのコーラスが格調高いので、ただの輪唱、という感じにはならない。またこの同じメロディを繰り返すコーラスが、小節ごとに微妙なメロディの違いを出していて、全体として単調さがないのである。
 僕が中学生のころだと記憶する。深夜のラジオ番組(MBS「ヤング・タウン」)でバンド演奏のコーナーがあり、無名のアマチュア・バンドが、この「夢のカリフォルニア」を演奏していたのを憶えている(複数の女性ボーカルでママス&パパスのコピーをしていた、バンド名はまったく記憶がない)。アマチュアなので、オリジナルの楽曲には到底及ばないものだったが、なぜかいまだに記憶に残っている。それだけ、当時、アマチュアがこの曲を演奏することが珍しいことだったのと、演奏自体の新鮮な響きが僕の脳裏に強く印象付けられたのであろう。


 

マッシュマッカーン「霧の中の二人」

 洋題は「As The Years Go By(=年が経つにつれ)」という。歌詞の中にも何度も出てくるが邦題のイメージとは違うようである。1970年のヒットで、アメリカでは31位が最高ランキングのようだが、日本ではオリコンで70年秋に1位(シングル売上100万枚以上という大ヒット)になっている。オルガン主体のサウンドでアートロック、あるいはサイケデリックロックといったジャンルに入るのだが、その軽快なリズムと淡白なボーカルで、そんな感じはしない。むしろその中途半端さゆえに、日本人の琴線に触れるような(軽快なんだけど物悲しさが漂っているというような・・・)メロディとなり、全米より日本で大ヒットしたのであろう。1970年は世相でもいろいろな事のあった年である。万国博覧会が大阪吹田の千里丘陵で開催されたのもこの年だ。万博はその後、つくば博覧会や大阪花博、沖縄海洋博等々、たくさん開催されているが、70年の開催ほど盛り上がったものはなかったのではないか。アメリカ館の月の石には長蛇の列、岡本太郎の太陽の塔、それに篭城した男、コンパニオンという言葉、思い出すときりが無いが、とにかく日本中が元気のあった頃である。

マジック・サム「ジャスト・ア・リトル・ビット」

 ファンキーなブルースマン、マジック・サムのお得意ナンバー。R&B系のノリと、アップテンポのブルース形式で、とてもわかりやすい曲である。マジック・サムのバージョンではサックスのエディ・ショウが全面的にフューチャーされている。この曲を僕が初めて聴いたのは、ホトケこと長井隆率いる、ウェスト・ロード・ブルース・バンドがカバーして歌っていた時である(もう30年ほど前の京都のライブハウスにて)。山岸のギター、小堀のベースのバックのメロディに、塩次伸二の小気味良いギターのカッティング。その「間(ま)」に入るホトケの渋いボーカル。奥の深い曲だ。


 

マドンナ「アメリカン・パイ」

 マドンナがデビュー以降の20年間に、ビルボードのベスト20に入った曲は40曲以上(スゴイ!!)。ベスト10に入ったのは30曲以上。ベスト3になったのが20曲以上。そしてナンバーワンになったのが10曲以上(おみそれしました!)と、いかにヒットが多い歌手であったかが分かる。マドンナは1958年、アメリカ・ミシガン生まれ。5歳の時に母親を亡くし、以後、父親の後妻とうまくいかず、17歳のときにわずか35ドルを手にニューヨークへ。ファストフード店でアルバイトをしながら、ダンスと歌のレッスンに励む。時にはヌードモデルをしたとも伝えられる。1983年に歌手としてデビュー、翌年に「ライク・ア・バージン」の大ヒットで世界的に有名になった。世界的なヒットとは裏腹に、当初、アメリカのフェミニスト団体から非難された時期があったとか。その理由は、アメリカでは、映画女優のマリリン・モンローが、男性に媚を売った、またはそういう映画に出た、ということで批判されつづけているのと同様、マドンナも同類と判断されたようだ。しかし、彼女のファッション、歌の内容が、実は自身の実体験と社会批判、敬虔なクリスチャンとしての視点を背景としたものであることが理解されることになり、今では女性解放運動の象徴的存在として受入れられているそうだ。が、マドンナ自身にはそこまで社会性や思想を実践したい、という意思はないらしい。あくまでも、自分自身の生活の表現者、という姿勢のようである。数年前、ジョディ・フォスターと同様、シングルマザーになり、最近の歌にも、そんな子供に向けた曲もあるとか。
 ところで、この「アメリカン・パイ」は、1972年、ドン・マクリーンによって全米ナンバーワンとなったヒット曲のカバーである。内容は、ドン・マクリーンの音楽体験を交えた自伝的な歌で、8分30秒という大作なのである。僕がこれを聴いたのは、高校2年生の頃ということになる。「So bye bye Miss American Pie~」のところが耳に残っていた。長い曲で、意味も分からなかったのに、いい曲だなぁ、と思っていた。ちなみにAmericanPieというのはマクリーンの恋人だということである。マドンナのカバーでは、この長い曲の2番から4番を省略している。ドン・マクリーンのギターメインのカントリー調とは少し変えて、ややポップな仕上がりにして、聴きやすい曲である。これが入っているのが、アルバム『MUSIC』であり、アルバムと同名曲がヒットしているが、僕はこの中でも、やはり「アメリカン・パイ」が一番いいと思う。好きだ。

ミッシェル・ポルナレフ「愛の休日」

 「♪Holiday oh!! Holiday~」という歌詞がなぜか記憶に残っている。1972年の作品。ミッシェル・ポルナレフは、金髪のもじゃもじゃ頭に四角いサングラスといういでたちで(少し初期の井上陽水に近いものがある)そのハイトーンボイスが印象的なフランスの歌手だ。一般的には「シェリーに口づけ」の方が有名かもしれないが、僕はこちらのバラードが好きだ。この曲のメロディが郷愁をさそうのだ。女の子にふられて悲しみの面持ちで夕日を眺める。その時おもむろにこの「愛の休日」が流れたら、思わずポロリと涙する。そんな高校生時代があったような気がする。

 

モンキーズ「アイム・ア・ビリーバー」

 モンキーズの2曲目のナンバー・ワン・ヒット。アップテンポで掛け合いがあったり、タンバリンのリズムが軽快感を生む。かつてテレビ番組「ザ・モンキーズ」を見ていた頃が懐かしく思い出される。シンガー・ソング・ライターである二ール・ダイアモンドが書き、1967年に大ヒットした。アメリカでは発売前に、105万枚以上の予約が殺到したともいわれている。モンキーズの全作品の中で、もっとも良くできた曲だと言われている。1967年といえば日本ではグループ・サウンズ全盛期。この曲が出た2月には沢田研二を擁するザ・タイガースが「僕のマリー」という曲でデビューしている。そしてザ・タイガースは、モンキーズを真似て「タイガースのテーマ」という曲をコンサートの1曲目に歌っていた。

ザ・モンキーズ「デイドリーム・ビリーバー」

 以前、CS放送で懐かしのテレビドラマ「ザ・モンキーズ」を放送していた。子供のころよく見ていた番組だ。当時の日本版をそのまま使っているのか、吹き替えの声も同じであった(確かスリーファンキーズというジャニーズの元祖的アイドルグループのメンバーがやっていた・・・・長沢~、高橋源太郎~、あとが出てこない・・・)。番組のストーリーは、人気グループのモンキーズの面々が主役のドタバタ喜劇+ビデオクリップという構成だ。モンキーズは、ビートルズの人気(英国)にあやかり、アメリカでもアイドル的なグループを、ということで結成された。そういう企画もの的、キワモノ的誕生のわりには、けっこうヒット曲が多く、またいい曲も多い。この「デイドリーム・ビリーバー」はモンキーズを代表するヒット曲だ。イントロのチェンバロンの演奏が印象的だ。そしてサビの部分も適度な盛り上がりがあり、楽曲の完成度は高い。子供の頃のかのテレビ番組で頻繁に流されたので、この曲を聴くとそのころを懐かしく思い出す。その後、忌野清志郎が日本語でカバーしたものが、カップヌードルだったかのCMに使われ再びヒットした。


 

★ら行

レーナード・スキナード「フリー・バード」

 1966年、フロリダ州ジャクスンヴィルで結成されたサザン・ロック・バンド。先輩格としてはディアン、グレッグ・オールマン兄弟を中心としたオールマン・ブラザーズ・バンドがある。レーナード・スキナードは、第二世代のサザン・ロッカー達である。同じ地域のバンド仲間でみんな相当な悪童だったという。そこをアル・クーパーに見出されることになる。先輩格のオールマン・B・Bが失速しはじめた1973年にこの「フリー・バード」をひっさげて登場した。この曲はデュアン・オールマンに捧げた曲だということだけあって、こてこての南部ロック(オールマンBBを意識した)である。バンドの特徴は、なんといってもトリプル・ギター(アレン・コリンズ、ゲイリー・ロッシントン、スティーヴ・ゲインズの3人)によるブルージーな絡みである。もともとブルースやR&Bを背景にしたロックンロールであり、アドリブ主体のライブ・バンドである。このバンドが不慮の飛行機事故で主要メンバーを亡くす直前のライブ・アルバム『フリーバード・ザ・ムービー』にも収められている。その演奏時間たるや11分41秒(観客の鳴りやまない歓声も含め)という長さである。はじめはバラード風に歌い上げられていく(このあたりE・クラプトンの「レイラ」の後段部分に似ていないこともない)が、だんだんとギター同士が絡み、よりハードで泥臭い盛り上がりになっていく。最後は弾きまくり、という感じとなる。

レーナード・スキナード「スィート・ホーム・アラバマ」

 就職した頃、男子寮の寮監を2年間ほどしたことがある。当時はまだ武道系の学生もたくさん寮に居て、そういう学生が数人上回生として寮に残る。したがって一般の男子寮といってもある種、体育会的な雰囲気が漂っている。そうは言っても実際、運動系のクラブに入っている者ばかりでなく、文科系の学生も多く居る。そういった多種多様な学生が1年間寝起きを共にするのである。1年経つとかなり結束は固まる。ある夜中、暴走族の数名が、寮生のバイクを窃盗しようとやって来たことがあった。遅くまで起きていた(まあ寮は年中不夜城だが)学生が物音に気づき、不審者であることが分かった。上回生の指示で全館放送がかかり、50人近い学生(武道系や体育系やその他)が一斉に集合し、寮の雰囲気を察知して逃げようとしている暴走族を難なく捕まえ、近くの警察署へ突き出した。一般の家庭だと、そうはいかない、暴力を振るわれたりされれば、関わって怪我をするのが落ちだ。しかし、侵入するところを間違った。空手とか柔道、ラグビー、アメリカンなどをしているつわものの住む館である、恐いものはない。さらに、寮生の結束も強い。この後、寮生たちはますます結束を強めることとなる。この寮に住んでいると夜中に学生がよく訪ねてくる。僕が音楽好き、最近ブルース好きになったというのを聞きつけて、一人の軽音楽部の学生(寮生)が、このバンドいいですよ、とカセットテープに録音してきてくれた。ロッシントン・コリンズ・バンドのアルバムだった。女性ボーカルのノリの良いサザンロックだった。すぐ気に入り、何回も聴いた。実は、今だにテープがあって少し前の時代(カセットプレーヤーがあった時代)までは、しつこく聴いていた。このテープのバンドはサザンロックの双璧の1つ(もう一方はもちろんオールマンBB)、レーナード・スキナードのメンバーの一部が一時期結成した幻のグループだった。今、CDショップを探してロッシントン・コリンズ・バンドのアルバムはたぶん無い。さすが軽音楽部に入っている学生だけあって、渋いバンドを知っているものだ(ったと今思う)。
 この曲はレーナードの代表曲と言って良い。そしてニール・ヤングの「サザン・マン」のアンサーソングだとライナーノートには書いてあった。南部の泥臭い曲調、やはり下地となっているブルースの影響もあるが、力強い演奏はトリプルリードギターの編成によるところが大きい。

レアアース  「ゲット・レデイ」

 70年代初頭に流行っていたテンプテーションズのカバー曲。レアアースは、ブラック・ミュージックのモータウンに属しながら、自らのグループ名をレーベルとして持つ白人のバンドである。バンドの詳細はまたく分からないが、この曲は、僕らの若い頃(昭和50年ごろ)ディスコでよくかかっていた。そうそう、僕が大学生だった頃でも、今の大学生と同じくサークルのコンパがよくあった。今ならコンパの二次会は、カラオケボックスやスナック貸切などのパターンだが、当時は、二次会は、よくディスコへ行った。ディスコと言っても、今どきのディスコ、「クラブ」などと称するラップ・ミュージックを聴いたり踊ったり、というものでなく、純粋に(変な言い方だが)ロックなどに合わせて、ただただ踊る、というものであった。時には生バンドが演奏するようなディスコ(この場合ディスコとは言わないか、ゴーゴー喫茶?)もあった。そのディスコでは、このレアアース「ゲット・レデイ」がよくかかっていて、「ア~ア~ア~ア~ア」という部分で、踊りながな歌うのがキマリのようでもあった(今考えると、その後のジュリアナなどのバブル期ディスコの雰囲気に通じるところがあった)。
 ディスコの楽しみは、音楽(CCR・ドゥービー・ストーンズ・・・)にあわせて踊り、汗をかいて発散することであったが、10曲に1曲ほどの間隔で、チークタイムがあり、これも楽しみのひとつであった。楽しみ、と書いたが寂しい時間になることもある。それは相手をしてくれる女性がいない時である。それでも万が一の確率を信じて、踊る場所を探す。僕は、性格的に内気なので知らない女性をナンパする勇気はなかった。なので、同じサークルで来た女の子とチークを踊る、というなんだかショボイ行動をとるのが常であった。このときの曲にはプロコル・ハルムの「青い影」などがよくかかっていた。ディスコの帰りは、深夜までやっている喫茶店(「夜の窓」とか)へ行った。そこでもさんざんおしゃべりをして空が白々としてきて解散する、というパターンだった。二日酔いと筋肉痛と睡眠不足で翌日の授業は出席カードに名前を書くだけが精一杯だった。

 

ザ・レターメン「ラブ」

 ジョン・レノンも歌っているが、日本でヒットしたのは、こちらレターメンの方だった。レターメンは男性3人組みのコーラスグループで、「涙のくちけ」というヒット曲がある。ジョンのバージョンは淡々と歌っているが、こちらの方は、叙情的に歌いあげていて、これはこれでなかなかいい。

 

ローリングストーンズ「SHE’S A RAINBOW」

 以前、アップルコンピュータのテレビCMで、カラフルなパソコンがくるくる回り、バックで流れていたのがこの曲だった。ストーンズの初期のアルバム『THEIR SATANIC MAJESTIES REQUEST』(1967年)に入っている。僕は、この曲を聴いたのは小学生のころか中学生のころだったかと記憶する。ラジオで流れてきたのを覚えている。ストーンズといえば、ブルースやR&Bをバックグランドとした骨太の泥臭い楽曲が思い浮かぶが、この「SHE'S A RAINBOW」は、今聞くと、なんだか、おとぎの国から来た音楽的な雰囲気がある。つまりどちらかというと子供向け的というのか。そのことは曲間にメロディックな高音のピアノのフレーズが入るから、そう思うのかもしれない。ただ僕は、そのピアノに突然かぶさっていくベースとミック・ジャガーの切ない感じのしゃがれた声のメロディがなんともいえず好きだ。アップルのCM製作者は、えらくマニアックな選曲をしたものと感心する一曲である。

 

 

 

 

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★邦楽のおまけ

ジャンルや順序はバラバラです。そのとき思いついたこだわりの1曲ということで。

上田正樹「悲しい色やね」

 ジャパニーズ・ソウル・シンガーであるキー坊こと上田正樹が、おそらく最初で最後?といってもいい、メジャーヒットがこの曲である。彼がプロデビューした1970年代は、関西を中心としたブルースやロックシーンの中での存在感であったが、まだまだメジャーな認識はされていなかった。ライブハウスや野外コンサートで、オーティス・レディングの「おまえをはなさない」「トライ・ア・リトル・テンダネス」などを歌うキー坊は、当時の僕ら若者にも絶大な人気があった(バンド名はサウス・ツゥ・サウス)。そんな彼が、この曲を発表したときは、多くのファンは離れていったかもしれないし、また受け入れがたい、と思ったかもしれない。あんな歌謡曲のような、ロック魂は失ったのか・・・?等々。ただ僕自身は、けっこう彼のコンサートに行ったりしていたので、ヒット曲が出たからといっても、昔の雰囲気は変わらず、またオーティスなどのカバー曲も歌っていたので、ファンであったし、この曲をカラオケなどでもよく歌ったものだ。最近、女性ソウルシンガー、吉祥寺のジャニス(ジョプリン)と称される金子マリが『金子な理由』というアルバムを出した。そのラストを飾っているのが、上田正樹のこの曲である。このバージョンもなかなか良い。

大木トオル「Everynight Woman」

日本人で初めて、本場アメリカでブルースシンガーとして認められたのが大木トオルである。東京都中央区のホームページに彼の紹介があった。以下引用。
{東京、日本橋人形町に三代続く江戸っ子として生まれる。1967年音楽活動を始め、日本初のブルースバンドを結成すると共に数多くのアーティストをプロデュース。その後1976年渡米し、唯一東洋人ブルースシンガーとして米国労働省の認可を受け、アメリカ合衆国に永住権を持つ。全米コンサートツアーの成功と共にブラックミュージックの伝統ミシシッピーデルタブルースフェスティバルにスペシャルゲストとして迎えられるなど人種の壁を越えて輝かしい足跡を残す。日米のブラックミュージックの架け橋として、多大な功績を残しミスターイエローブルースと称賛される。アメリカ国内においてもプロデューサーとして多くのアーティストを育成すると共に日本のアーティスト育成にも力を注ぎ国際特別講師などの活動を行う。2001年NYテロ被災者追悼チャリティーコンサートに参加/2002年新作「Sweet Home Town」をエイベックス・イオからリリース。6月、人形町「水天宮凱旋コンサート」をはじめ、日本全国10カ所で来日公演を開催。又、動物愛護家として、日米の友好親善に貢献し、ブリードの研究と日米のセラピードッグ(治療犬)のパイオニアとして育成、普及にも力を注いでいる。AMS(アメリカンミュージックシステム)会長、ユナイテッド・セラピー・ジャパンinc代表、日本セラピードッグ協会設立委員会代表。趣味は旅。}
 最初のアルバム「マンハッタン・ミッドナイト」には、大勢の黒人ミュージシャンに囲まれて、中央に大木トオルの姿がある。このメンバーは「大木トオル・ブルースメバンド」というホーンセクションも入った大所帯のバンドで、そのジャケットの写真からは、メンバーから慕われている彼の姿が見て取れる。「Everynight Woman」もこのアルバムに入っている。僕は就職してすぐの頃(1980年ころ)にこのアルバムを買った。ブルースといえば関西だ、と思っていた時期だったが、雑誌で東京生まれの日本人が本場アメリカでブルースミュージシャンとして成功した、というようなニュースを見た。それでちょっと聴いてみようという気になった。ロック系のブルース、つまり楽器はギター・ドラム・ベースという基本セット、と違い、管楽器が入った濃厚なサウンドだったし、ボーカルは、やけに絞ったような、しゃがれた声で、すんなりとは受け入れられるものではなかった。その後、そのアルバムはしばしの間、寝かせる、こととなったが、そのアルバムをふたたび聴くようになったのは、一冊の本(文庫本)であった。

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 『伝説のイエローブルース』という大木トオルの自伝である。そこには単独でアメリカに渡り、結核になり、貧しい生活をしながら、次第に黒人社会に受け入れられ、認められ、大成するストーリーが綴られていた。ブルース界の大御所、アルバート・キングと対等に交渉しジョイントアルバムを製作した話、ソウルで超有名なベン・E・キングからアルバムの話が持ちかけられたこと・・・・。はっきり言って感動したのである。それからは、出たアルバムは必ず新譜で買っている。そしてしゃがれた声も、濃厚な演奏も、それはそれで、なかなか聞き応えのあるものだと思ったし、またブルースといってもR&B、ソウルミュージックの選曲も多く、ノリの良い曲、聴かせる曲とオールラウンドにブラックコンテンポラリーをこなせるミュージシャンだと感じるようになった。そしてとうとう彼と直に会う日がやってきた。京都にある都雅都雅(とがとが)というライブハウスで、大木トオル&ナイトホークスのライブがあることをキャッチし、職場の仲間と一緒に見に行ったのである(今から15年ほど前だと思う)。チケットは前売りで購入してあった。そしていけないことではあるがカセットテープを持ち込み、そして、「もしも」の話だが、会えたらサインをもらうためにマジックインクとファーストアルバム(LP:もちろん中身は抜いて)、記念写真を撮るための「写るんです」を用意した。これだけでもかなりの重装備だったが、コンサートと違い、すんなりとパスした。
感動のライブ(あまりに素晴らしいので書くと長くなるので省略)が終了し、すぐ帰ったら会うことは出来ない、ライブの中のスピーチで、京都には世話になった人が多い、と言っていたこともあり、きっと出てくるだろうと思った。15分ほどして、やはりステージ裏から出てきた。京都在住の知り合いと対面するための様子だった。その会話を少し聞き取りつつ、近づいていき、アルバムジャケットとマジックを差し出したのである。大木トオルは、特にファーストアルバムに強い思いいれを持っていることも知っていたので、やはりと言っていいか、こちらの存在にすぐに気がついてくれた。そしてあとは、「名前は?」と聞かれ、「Ohtaさんへ」という文字の入ったサインをしてもらった。もちろん、そのジャケットを持ち、大木トオルに肩を抱いてもらって前向きに並んだポーズの記念写真もバッチリ撮った(デジカメと違って現像に3日ほどかかる時代だったので出来具合をどれほど待ち焦がれたことか)。このサイン入りジャケットと記念写真は、いまでも自宅リビングに飾っている。

キングトーンズ「グッド・ナイト・ベイビー」

 キングトーンズのリーダーは内田正人という人で、デビューした昭和35年からいらっしゃる。ドゥー・ワップとかアカペラ、R&Bなど、日本ではまだぜんぜん知られていなかった時代に、このグループを結成し、1967年(昭和42年)、この「グッド・ナイト・ベイビー」を大ヒットさせた。レコードは100万枚を売り上げ、文字通りのミリオンセラーとなった。僕もこの曲がヒットしていた時は、まだ小学生だった。それなのにとてもよくおぼえているのは、いかにヒットしたかということであろう。その後、シャネルズというドゥー・ワップのグループが人気となり、キングトーンズも再び脚光を浴びることとなった。現在のメンバーは内田正人以外は新しいメンバーだと聞く。おそらくその年齢差は親子以上に離れているのではないか。しかし彼の声は変わることなく、今も現役でやっている。そしてキングトーンズを敬愛しているアーテストも多く、有名なところでは大滝詠一、佐野元春、山下達郎といったところだ。今のこのグループの方針は知らないが、だいぶ前に「徹子の部屋」に出演していたことを思い出した。そこで内田は、キングトーンズはR&Bのグループだが、外国の曲は取り上げない(恐らくカバーはしない)という趣旨の発言をしていた。あくまでも日本語によるR&B、ドゥー・ワップにこだわっていたのであろう。その自信を裏付けるほどの名曲がこの「グッド・ナイト・ベイビー」だろう。この「グッド・ナイト・ベイビー」は、当時の僕の認識では歌謡曲であった。当然同時期にヒットしていたのは歌謡曲だったし、日本語の歌だったし、それよりなにより、まだそのころはブラックミュージックの存在すら知らなかったから当然のことなのである。それがロックやブルースを聴く年代になって、さらにブラックミュージックのジャンルを特に好んで聴くようになって、やっとこの曲のR&B的匂いがわかってきた。全体の構成もよく出来ている。出だしのスローで語りかけるようなメロディ、だんだんとリズムが出てきて、サビでは裏声なども入り、盛り上がる。とても今から40年も前に作られた日本の曲という感じがしない。

ザ・キング・トーンズ「家へ帰ろう」

 キング・トーンズのヒットといえば上の「グッド・ナイト・ベイビー」だが、この「家(うち)へ帰ろう」もいい曲だ。ドゥーワップのバラードで、「~♪遠き山に陽は落ちて~」のメロディを間奏部分に入れてアレンジしている。郷愁を感じる曲だ。僕は、通勤の途上、電車の中でよく音楽を聴いている。この曲は朝ではなく、帰りの電車のホームなんかで聴くと、もう涙が出るほどぴったりの曲だと思う。

<追記>「~♪遠き山に陽は落ちて~」は、ドヴォルザークの交響曲 第九番 ホ短調 「新世界より」第二楽章“GONE’HOME”であった。どおりで家に帰ろうと同じタイトルだ。

ジローズ「戦争を知らない子供たち」

 以前『週間ポスト』に「ちくメロ放送局」というコーナーがあり、「戦争を知らない子供たち」という曲がとりあげられたことがあった。その記事の中にこの曲を歌っていたジローズの杉田二郎のコメントがあった。「私自身はあの歌に、世界中の子供たちがこれから戦争を経験しないでいいように、そういう世の中になって欲しい、という願いを込めました。しかし、戦争なんて俺たちには関係無い、とチャラチャラ歌っている、と誤解され、・・・・」という内容だった。確かに曲名にインパクトがあるので、杉田の言うような曲に込められた意図がわからなければ、戦争を知らない、ということを誤解されたであろう。僕自身の経験でも、高校時代の国語の先生に、この曲を盛り込んだ作文を書いたところ注意を受けた思い出がある、戦争を知らないとはなにごとか、と。当時、まだベトナム戦争の渦中だったし、その後も世界のあちこちでは、民族紛争、独立運動、民主化運動、学生運動・・・戦争とはいかないものも含めて「争い」ごとはたくさんニュースなどで取り上げられていた。そんな中での、このタイトルである。今考えると少し違和感があることも確かである。またこの状況は21世紀になっても中東紛争やテロリズムなど、世界が平和、と感じるところへ至っていない。きっとこの先も・・・・と暗澹たる気分になるのだが、しかし少しでも良い方向に向かってほしいと思うのは、誰も同じ。この週間誌の記事にはジローズのもう一人のメンバー、森下悦伸のコメントもあった。「3番の歌詞にある ♪いつでも笑顔のすてきな人なら誰でも一緒に歩いてゆこうよ♪ という一節が、この曲のすべて。戦争賛美でも反戦の歌でもない。青春時代の友情や恋愛を歌った、永遠のラブソングなんです」と。この曲が世に出たのは1970年、大阪万博のあった年である。歌っているのはジローズであるが、その前に「全日本フォークジャンボリー」という形のバンドがあった。ラジオの深夜放送「ヤングタウン」の今月の歌で聴いたのはこちらの方であった。そしてこの曲を歌う前に作詞者の北山修のMCが入っており、先のジローズの二人と同様な説明をしていた。僕はこの年、中学生で、しかもギターを始めたばかり。コード進行も憶えやすく、ガットギターで必死で練習した思い出がある。

ボ・ガンボス「さかなごっこ」

 京都出身のロックンロールバンド、とでも言っておけばいいのか。ロックに限らずソウルやブルース、ファンクといったジャンルをこなす。残念なことに、メインボーカルでリーダーのどんとさんは、数年前に急逝した。本当に急だった。
この「さかなごっこ」は正真正銘のロックンロールだ。どんとのファンキーなピアノが存分にフィーチャーされたノリノリの曲である。そして楽しい。ついからだが動く。文句なしに楽しい曲。ボ・ガンボスは、アメリカのブルースシンガーのボ・ディドリーにちなんで付けられた名前だ(と何かで聞いた、で、同じころにボ・ディドリーは亡くなったのであるが、きっとどんとと天国でブルースのセッションをしているんだろう)。そのボ・ディドリーが来日したとき、ボ・ガンボスが前座をつとめた。このバンドの前身は、ローザ・ルクセンブルクというサイケデリックなバンドだった。レコードも数枚出ているのでアンダーグラウンドなバンドに詳しい人なら知っている人も多い。僕は、ローザの時代、今から30年以上も前だろうか、京都市内のライブハウスで何回か見たことがある。北白川通りにあったCBGBというライブハウス。ここは昔サーカスサーカスという名で、御大、上田正樹やウエストロードがよく出演していた。今はどうなっているのかまったく知らない。そこで、ローザの演奏を聴いた。しかしあまり印象はない。やはりボ・ガンボスでメジャーデビューして、野外ライブなどに出てからの印象が強烈だったこともあるのだろう。そんな彼らの代表曲がこの「さかなごっこ」だ。余談だが、ローザはみんな京都大学(天下の国立大学)の学生だったはずで、みんな頭いいはずなのに、ステージではそんな風にはぜんぜん見えなかった。あのころの京都の音楽シーンにはいろんな人が居たのである。

 

南沙織「17才」

 この曲は数年前、森高千里がカバーしていた。南沙織のがヒットした頃は、御三家アイドルとして天地真理とあと誰だったろうか、浅田美代子がいた時代だ。ちょうど僕が高校時分だったので、クラスの男子は、彼女らの写真を下敷きにはさんだりしていた(僕は天地派であったが、彼女のその後の凋落には悲しいものがある。→ヒット曲に恵まれない→しばしの充電?期間→ダイエット本の出版→日活ロマンポルノへの衝撃の主演「魔性の香り」→熟女ヌード写真集(購入しました)→どう見ても無理ではと思われる感のある娘さんの芸能界進出計画→今は知らないが→ときどきバラエティに出るも「この方は???」というポジション)。そんな中でも、天地真理のキャラと反対位置にいた南沙織は「シンシア」と言われ、少しレベルの高いアイドルというポジションだったように思う。吉田拓郎の歌にも憧れ的にうたわれていた(僕もこちら派にしておけばよかった)。シンシアは、現在は、篠山紀信の奥さんだ。そして息子は俳優デビューしている。この「17才」が出た当時、リン・アンダーソンの「ローズ・ガーデン」に似ていると騒がれたことがあった。確かに聴き比べるとイントロ部分と歌いはじめの部分がよく似ている。どちらもさわやかな曲であり、まあ今となっては、そんな盗作騒ぎも懐かしい思い出だ。

玲葉奈(レヨナ)「ジョイ・ツー・ザ・ワールド」

 CDショップで新譜(シングル)を衝動買いした。「フリー・ウェイブ」「ジョイ・ツー・ザ・ワールド」他全3曲入りの玲葉奈のシングル盤。1曲目は、このごろよく聴く。2曲目が、以前、スリー・ドッグ・ナイトのことで取り上げた曲で、買ったのは、この玲葉奈がどのようなアレンジで歌っているのか、なぜか非常に気になったのである。数年前、ポカリスエットのCMで流れていた「トラベリンマン」という曲を玲葉奈が歌っていた(はじめ、そのソウルフルな雰囲気に、これを歌っているのは、ぜったい、金子マリだとばかり思っていた)。このアーティストは、広島出身の若手だが、その歌唱力には定評がある。これまでいろいろなバンドのボーカルとして活躍していたようで、僕は、この「トラベリンマン」以降、その動向が気になっていた(はっぴいえんどのカバー曲で「風をあつめて」も歌っている)。もちろん出ているアルバムは既に手に入れている。いずれアルバムにも収録されるのであろうが、聴きたいという誘惑に負けてしまった。そんな彼女の「ジョイ・ツー・ザ・ワールド」。ギター一本のシンプルなアレンジながら、けだるい歌い方と、少しメロディを変えて(というのかアドリブっぽい歌い方で)、よく聴かないとスリー・ドッグ・ナイトのあの曲だとは誰も思わないような仕上がり。いい感じである。

ザ・フォーク・クルセイダース「イムジン河」

 数年前、この曲がCDで復刻され、そこそこヒットしたらしい。また映画『パッチギ!』にも使われていた。僕がこの曲を聴いたのは中学生の頃だと思う。今から40年ほど前のことか! 当時、レコードは発売禁止となっていたが、ラジオなどでは流れていたように思う(フォークルは京都出身のグループなので地元ラジオでの取り上げ方は大きかった)。またギターの雑誌などにも楽譜は掲載され、僕もギターを弾きはじめていた頃だったので、自身でも歌ったりしていた)。ただ、この曲のメロディの良さにもかかわらず、しかしレコードは発売禁止、という、複雑な事情、国際問題に、中学生は中学生なりに、その空気を嗅ぎ取っていたと思う。話は少しそれるが、その中学生当時、大学では学生運動がピークだった。テレビでも大学に立てこもって機動隊と衝突する映像が映し出されていた(東大安田講堂にたてこもる全学連と催涙弾や放水で攻撃する機動隊の姿は、どうみても後者が「悪」という構図だった、僕にとって)。で、当時、僕のクラスの担任は、ことあるごとに「ああいう大学生になってはいかん」「大人になったら分かる」というのが口癖だった。しかし僕としては、理由もなく、あんな事をしているのではないのだろう、という考えも持っていた(担任はそういう説明はまったくしてくれなかった、頭ごなしだった)し、けどまだまだ世の中のことが判っているわけではない、という負い目もあり、その担任に表立って反論できなかった。いまだにくやしいのである。青臭い頃の「純」な思い出だ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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