嵯峨野めぐり

平成5年(1993)から平成10年(1998)にかけて、職場の広報誌(毎月1日発行)の表紙に掲載した写真と解説です。よくぞ続いたと思います。そして、この仕事をさせていただき、ずいぶんと社寺の由緒などに詳しくなり、また京都の歴史の奥深さを感じるところとなりました。ここでは、そのうちの嵯峨野周辺の名所をピックアップして紹介します。

追記・・・その紙面には、写真と文章に加えて私が筆ペンで書いた簡単な地図を添えておりました。せっかくなので、その画像を追加しました(2022.2.13.)

天龍寺(てんりゅうじ)

天龍寺(てんりゅうじ)/暦応年間(1467~)足利尊氏が後醍醐天皇の菩提を弔うため創建、夢窓国師が開山した。暦応資聖禅寺と定められたが、尊氏の弟(直義)が見た金龍の夢により、後に天龍資聖禅寺と改称、現在では天龍寺と呼ばれている。天龍寺船の名でも知られているように、元との貿易収入を造営の費用にあてたことは有名。勅使門を入ると中央に放生池があり、南北両側には塔頭(小寺院)が並び、法堂に続き大屋根をいただいた方丈がその奥に位置する(写真)。この方丈から鑑賞することが出来る庭園は、夢窓国師の作とされ、平安期寝殿造と鎌倉期禅宗文化がうまく折衷した日本でも有数の美しいものである(国の史跡・特別名勝に指定)。地図

 

車折神社(くるまざきじんじゃ)

車折神社(くるまざきじんじゃ) /社伝によると鎌倉時代、後嵯峨天皇が大堰川に御幸したとき、御車の柄(車を引く棒)が折れ動かなくなった。調べてみると祠があったので、車折大明神の神号と正一位を贈り、のち車折神社と称されるようになった。本殿前に「車前石」がある。毎年5月の第3日曜に、大堰川で行われる三船祭は、車折神社の行事である。この神社には商売繁盛の信仰があり、参詣者が神前に供えた小石を持ち帰り、祈願成就すると、御礼として別の石を添えて奉納するならわしがある。また境内には芸能神社と称される小社がある。近辺には古くから映画の撮影所があることによるのか、芸能の向上を祈願し、名前を書き込んだ朱の板棚、柱に貼られた札などが目を引く。写真は三条通より見た参道。四条大宮から京福電車に乗り、「車折神社前」で降り南側すぐ。住宅街にありながら、境内は以外なほど静かな場所である。 地図

 

 

鹿王院(ろくおういん)

鹿王院(ろくおういん) /ここは康暦2年(1380)足利義満が延命を祈願して創建した宝幢寺の塔院です。創建後、応仁の乱などで荒廃し、この塔院のみが残ったようです。境内の舎利殿には、源実朝が宋から迎えた仏牙舎利(ぶつげしゃり=インドよりスリランカに伝えられた釈尊の歯といわれるもの)が納められています。この仏牙舎利が日本に着いたのが10月15日であったところから、毎年その日を舎利会(しゃりえ)と定め、他の文化財とともに一般公開しています。写真は足利義満の筆による「覚雄山」の細長い額がかかっている山門です。この山門から中門、本殿へは、竹林に囲まれ、青苔におおわれた石畳の通路があり、嵐山を借景にした枯山水の庭園へと続いています。交通は、京福電車「鹿王院」で下車するか三条通を通る市バス「下さが」下車、商店街の筋から50m位入ったところに山門が見えてきます。比較的交通量の多い三条通であるが、一歩なかに入ると静かな趣のある空間が広がっています。

 地図

 

保津川下り

保津川下り /保津川は、京都市を流れる桂川の上流、亀岡市保津町から京都市右京区嵐山の渡月橋までの間をいう。この間約16キロ、蛇行した峡谷を船にて川下りする。水運の歴史は古く「延喜式」にみえる。近世に入り、角倉了以の河川改修事業により、丹波から京都へ木材、物資を輸送する船運が隆盛したが、鉄道(現在の山陰線)の開通(明治32年)にともなって衰え、かわって観光としての川下りが盛んになった。乗船するにはJR二条駅より山陰線(嵯峨野線)で亀岡駅まで約30分、そこから乗船場まで徒歩10分位。乗船してからは16キロを約2時間の行程で下る。途中、旧山陰線(現在嵯峨野観光鉄道)を走るトロッコ列車と交叉しながら、急流や奇岩が連続する峡谷の川下りを楽しむ。スリルは日本一と言われている。 これから晩秋にかけて谷あいが紅葉し、川下りの観光も一味違ったものとなるだろう。写真は嵐山渡月橋付近。地図

 

直指庵(じきしあん)

直指庵(じきしあん) /禅宗の代表的なことばに「直指人心・見性成仏(じきしにんしん・けんしょうじょうぶつ)」という言葉がある。禅は文字や説教によらず、直接人の心をとらえ、自己の仏性を悟る、という意味である。直指庵の名はこの直指人心に由来する。その為、寺院ではあるが、○○寺という呼称を用いない。寺であるのか、庵(いおり)であるのかはその人の心次第ということだろう。江戸初期の創建で一時期大きな寺となったが後に荒廃し、幕末の頃、近衛家老女(侍女のかしら)津崎村岡(矩子・のりこ)が再建し、地元の子女の教育につくした事が伝えられている。場所は、大覚寺を北へ10分位歩いた山間にある。竹林を抜け石段を登ったところに草庵がある。靴を脱いで上がると、座卓の上に「思い出草」と表記されたノートが数冊置かれている。中にはここを訪れたであろう旅人(特に女性が多い)の恋愛の悩み、旅の想い出等々が綴られている。書くことによって心が癒されるのだろう。まさに村岡の再興した寺にふさわしい場所である。写真は直指庵の上がり口。地図

 

木島(このしま)神社・蚕の社(かいこのやしろ)

木島(このしま)神社・蚕の社(かいこのやしろ) /平安京の造営に大きな役割を果たしたとされる秦氏。5世紀頃、朝鮮半島(新羅)より渡来し、さまざまな文化・技術を伝えたとされる。その活動の中心となったのが現在の京都市右京区太秦である。雄略天皇の頃、秦氏が絹をうずたかく盛って献上したので、天皇より「禹豆麻佐(うずまさ)」の姓を受けたといわれ、地名もそれに由来している。四条大宮から京福電車(嵐山線)に乗り十数分、「かいこのやしろ」という駅がある。そこから北へ3分ほど歩いたところに木島神社の鳥居が見えてくる。この神社は秦氏によって創建され、養蚕(蚕の繭から絹糸を取る)技術のあった秦氏にちなみ、後に通称「蚕の社(かいこのやしろ)」と呼ばれ、駅名にも使われることになった。かつては「稲荷も八幡も木島も、人の参らぬ時ぞ無き」(梁塵秘抄)とあるように参詣者の絶えることがなかったようであるが、今では住宅街の一角にひっそりとしたたたずまいを見せ、訪れる人の数も少ない。秦氏にゆかりの深いこの地に、京都の源流を感じることの出来る古い社である。写真は拝殿。地図

 

竜安寺石庭(りょうあんじせきてい)

竜安寺石庭(りょうあんじせきてい) /竜安寺は、臨済宗(禅宗)妙心寺派の寺である。創建は室町時代。方丈(僧侶の居室)南側の石庭(写真)はあまりにも有名である。ところで日本における庭園の記録は古く、『日本書記』に「百済から帰化した技術者が、皇居の庭に須弥山(仏教でいう世界の中心に立つ山)と橋を造った」ことが書かれている。以降、築山、池を中心に自然物を取り入れた庭園が発達した。平安時代には寝殿造にみられるような大規模な鑑賞用の庭園が造られ、この伝統は現在の日本庭園として受けつがれている。ところがこの竜安寺の石庭はそれらのものとはまったく違った意味合いがある。限られた空間の中に、これ以上省略出来ない材料(白砂と石)をあたかも自然の景観であるかのように配置しているのである。これらを枯山水といい、実際に水を使うことなく水を表現し、ある人はこれを「大海の島」といったり「雲海の山頂」、「虎の児渡し」といろいろな解釈がなされている。禅宗の考え方でいえば、どのような見方をするのかは、見るものの心による、という事になるのであろう。地図

 

法輪寺(ほうりんじ)

法輪寺(ほうりんじ)/西京区嵐山の渡月橋南側、山の中腹に法輪寺(写真)がある。和銅6年(713)の開山というからかなり歴史は古い。ここは「嵯峨の虚空蔵(こくぞう)」と一般に知られているように虚空蔵菩薩を本尊としている。虚空とは何もない空間の意味で「藁をもつかむ」と同じ使い方で「虚空をつかむ」という言葉もある。仏教語としての解釈でいえば一切のものが何のさまたげもなく自由に存在する空間が虚空で、その「蔵=くら・収めるの意」であることより、無量の智慧や功徳を蔵する菩薩のこと。旧暦3月13日(現在4月13日)に、13歳になった子供が法輪寺に参詣する。これを「十三まいり」と呼び、知恵を授ける菩薩ということで広く京都周辺の人々に知られている。十三まいりを済ませた後、渡月橋を渡りきるまでにうしろを振り返ると、授けられた知恵を失うと言われ、子供達はわき見もせず渡月橋を渡りきるのである。このいわれは不明であるが、十三歳を節目とした通過儀礼としての意味合いが感じられる。つまり「渡りきるまで振り返れない」という子供にとっての苦痛を課すことで、一つの節を越え、成長していく行事となっているのではないだろうか。地図

 

 

常寂光寺(じょうじゃっこうじ)

常寂光寺(じょうじゃっこうじ)/嵯峨野の西、小倉山の中腹に常寂光寺はある。高台にあるので付近の街並はみとより、遠くは比叡の山々から京都市街地の景色が一望出来る。古くは歌人の草庵となっていたことや、江戸期には保津川を往来する船頭の宿泊所を兼ねていたという話もある。そういう関係からか、京都の商人などからの寄進が多く、国の重文を含め貴重な建物が残っている。寺名の「常寂光」とは、「寂光浄土」とも言われ、永遠・絶対の浄土のことである。言いかえれば、現実の中で感じて知ることの出来る浄土(世界)のことで「娑婆(現世)即寂光」という表現もある。天台宗の開祖、智覬(538-597)によって立てられた考え方で、仏の国(すなわち浄土)を4つの種類に分け(これを四土という)最後の浄土として位置づけた。現実の世界ならば、誰もがその世界を感じとれるのかというとそうではない。執着を断ち、修行を積んだ聖者が、究極の世界としてやっと感じることが出来るのである。そうはいっても、この寺から眺める京都の市街地、自然の景観は、さとりの境地に至っていない者であっても、この世をちょっと違った視点で見ることが出来る眺めの良い場所である。写真は仁王門。地図

 

 

野宮(ののみや)神社

野宮(ののみや)神社/斎という字がある。旧字は齎と書き、「示」という字と「斉(整える)」から成り立ち、神をまつるとき、心身を清め整える意を表わす。古代において天皇が即位するとき、伊勢神宮に奉仕した皇女(天皇の娘)を斎王(さいおう・イツキノミコトとも読む)と言った。1年間(時により3年間)身を清め物忌みをした後、伊勢へ向うのである。その潔斎をするためにこもる所を野宮と呼び、占いによって定められた。その為、一定した所にはなく、嵯峨野にある野宮神社(写真)も、かつて潔斎の場所(野宮)であった。「源氏物語(賢木の巻)」には、嵯峨野宮にこもっている六条御息所を、光源氏が訪れる場面があり、後に謡曲「野宮」にもこの題材が取り入れられている。神社は、天竜寺の北、二尊院に通じる竹林の道(テレビなどでおなじみのロケーション)を西へ進むと、こぢんまりとした神殿が見えてくる。看板には「縁結び、学問の神」とあり、嵯峨野めぐりの起点との説明がある。訪れる女性観光者も多いというが、数分間の滞在(参拝)で、これからの良縁を祈願するには、斎王の時代でないとはいえ、少々時間が少ないように思われる。京福嵐山駅より徒歩5分。

 

大悲閣千光寺(だいひかくせんこうじ)

大悲閣千光寺(だいひかくせんこうじ)/嵐山渡月橋から保津川右岸の遊歩道を上流へ15分ほど歩き、さらに石段を登りつめた山中に大悲閣千光寺はある。タレントショップや若者向けの店が立ち並ぶ嵐山の賑わいとは打って変わり、観光客の姿はほとんどない。慶長19年(1614)、角倉了以(すみのくらりょうい)によって創建された。角倉家は代々土倉(どそう=室町時代に発達した金融業)として有名であったが了以は家業を弟にまかせ、海外貿易に進出した(特に東南アジア方面との朱印船は有名)。50歳の時、丹波から京都に米や木材を人馬で運送している労力をみかねて、保津川の舟運開通に着手した。もともと数学や地理にも明るく、土木工事の技術に進んだ力量を持っていた。しかし急流で巨岩が多い保津川の改修は難事業であり、多くの犠牲者が出たという。その菩提をとむらうために、千光寺が建てられた。了以はその後も、富士川、天竜寺川の疎通事業、高瀬川の開削等、河川交通の開発に力を注ぎ、晩年はここ千光寺に隠棲したという。現在、京都市街が一望できるお堂に角倉了以の木像(写真)が安置されている。巨綱の上に座し、つるはしを持った姿は、400年近くこの地で、眼下の舟運を見守っているようである。

 

愛宕街道・鳥居本(とりいもと)

愛宕街道・鳥居本(とりいもと)/古くより「伊勢に七度、熊野に三度、愛宕山へは月参り」とうたわれるほど、愛宕神社への参詣は盛んであった。特に7月31日夜半から翌8月1日未明にかけての千日詣(せんにちもうで)は有名で、その夜一回で千日分の参詣に値するとされる。創祀は諸説あるが、丹波国国分村(こくぶむら=現亀岡市)から山城国愛宕郡(おたぎぐん)鷹ヶ峰(現京都市北区)に移されていた阿多古(あたご)神社を現在地(海抜924mの山頂)に移したという説が有力である。火伏せの神として信仰され、末社は全国に800余ある。特に京都府一円には「愛宕講」と称した地域ごとに参詣を目的とした集団が組織されている。講の代表者が愛宕神社に代参し、「火廼要慎」の札を授かり各家庭に配るのである。また1歳未満の幼児を背負って参詣すればその児は一生火難をまぬがれるともいう。神社へは、嵯峨野から清滝へ続く街道を北へ進んだところに登山口がある。山頂まで約2時間ほどの行程で、神社に着く頃には汗びっしょりの参拝となる。写真は登山口までの街道沿いに発達した門前町、鳥居本の街並み。一ノ鳥居の周辺に萱葺きで格子のある民家、茶店などが立ち並び、参詣帰りの人達が一息つくことができる風情のある場所である。

 

宝筐院(ほうきょういん)

宝筐院(ほうきょういん)/奈良県の大峰山に行けば「陀羅尼助(だらにすけ)」という名の腹痛の薬を買うことが出来る。センブリの根、キハダの皮などが原料で大そう苦い。もともと修行僧が、仏前でサンスクリットの音写である陀羅尼経(呪文)をとなえる際、睡魔を防ぐために口に含んだのがはじまりのようである。陀羅尼は別名宝筐印陀羅尼とも言い、無限の功徳がある経文とされている(宝筐は尊い箱を意味している)。その経文を収める四角形の塔のことを宝筐印塔(ほうきょういんとう)という。古く中国の呉越王(929~988)の頃に作られた記録がある。それが日本に伝来したときには、陀羅尼経の有無にかかわらず、同じ形のものをすべて宝筐印塔と言うようになり、さらに平安から鎌倉期にかけて、上層階級の墓碑として一般化していった。写真の宝筐院には、足利義詮(よしあきら:高氏の子)の宝筐印塔(墓)がある。平安期には善入寺、南北朝期に観林寺と称したが、義詮の没後、彼の法号(宝筐院)をとって寺名とした。場所は嵯峨釈迦堂の西側にあり、枯山水の庭園の西側に宝筐印塔が建てられている。故人の追善としての塔(墓)ではあるが、そのルーツは尊い教えを込めた象徴でもある。ねむけを払い、功徳を受けたいものだ。

 

臨川寺(りんせんじ)

臨川寺(りんせんじ)/大堰川(おおいがわ)は、京都市左京区広河原を源流とし、上流を上桂川(京都府下の京北町・日吉町)、中流を大井川・保津川(八木町・亀岡市)と呼び、嵐山渡月橋を流れる長さ約83キロの大河川である。古く葛野川と呼ばれたこともあるというが、古代・秦氏が付近に井堰(葛野大堰)を設けたことより大堰川と呼ばれるようになった。この川はそのあと桂川となり、淀川に合流し大阪湾に注いでいる。角倉了以が舟運を開き、現在「保津川下り」の名で遊船事業が行なわれているのは有名である。臨川寺(写真)は、渡月橋のすぐ近く、大堰川畔に位置している。寺名はまさに大堰川に臨む、ところからきている。建武2年(1335)若くして亡くなった後醍醐天皇の皇子の菩提を弔うため、夢窓疎石(むそうそせき)が開いた寺である。夢窓疎石は、自らこの寺を隠居寺とし、夢窓派一門の相承の寺となることを願い、76才で入寂した。応仁の乱以後荒廃し、後天竜寺の別院となった。現在拝観は停止され、門は閉ざされている。場所がら嵐山の若者向けのショップが立ち並ぶ間にあって、この門前だけが時代に取り残されているかのようである。が、大堰川の流れも当寺とともに昔と変わらないのも事実である。

 

地蔵院(じぞういん)

地蔵院/笠地蔵という昔話がある。雪の降る年越しの日、貧しいお爺さんが正月を迎える金もないのに道端の地蔵に笠を掛けてやる。その夜、地蔵が動きだし、お礼に米俵を届けるという話。地蔵にまつわる同種の話は数多く、「お地蔵さん」と親しみを込めて呼ばれたり、赤い着物やよだれかけの姿が見受けられるのは、子育ての神と習合し、広く民間に流布した結果と思われる。地蔵は、仏教用語で釈迦入滅後の無仏の間、六道の衆生を救済する菩薩と説明され、平安時代頃より信奉されるようになったという。地蔵院(写真)は、本尊に地蔵菩薩を祀る。嵐山の南、衣笠山のふもとにある。貞治年間(1362~8)に細川頼之(ほそかわ・よりゆき)によって創建された。時の将軍足利義詮(あしかがよしあきら)が病に倒れ、その子義満(よしみつ)の養育係として頼之が選ばれた際、頼之は義満を自分の子供のように育て、寝食を忘れ共に勉強をしたという。頼之はその後政情により失脚し、四国に渡ることとなるが、再び義満の手により召還され幕府の要職に就いた。「人生五十功なきを愧ず・・・」という詩は有名である。境内には自然石を用いた頼之の墓がある。その寺に地蔵菩薩があるのは偶然か、子どもを育てる心は時間を越え不変である。

 

等持院(とうじいん)

等持院/幕末の頃のこと、京都に参集していた松山、下総の藩士数人が、等持院に安置されていた足利尊氏、義詮、義満の三体の木像を奪い取り、その首を京都三条河原にさらすという事件があった(文久3年2月23日のこと)。当時高まりつつあった尊皇攘夷(そんのうじょうい)運動に呼応し、遥か500年も昔に室町幕府を開いた人々を逆臣ととらえ、その人形(木像)を断罪し、世論に訴えようとしたのである(「維新史料」より)。等持院は、衣笠山麓にある禅宗の寺院である。また足利尊氏の法号(戒名)も等持院という。初代将軍の時から歴代の足利家の菩提寺として葬送を執り行ってきた歴史ある寺である。夢窓国師の作と伝えられる庭園は、尊氏の宝筐印塔(ほうきょういんとう・墓)を中央に配し、池、築山、四季折々の草木等、バランスのとれた景観を作りだしている。参拝者は受付で靴を脱ぎ、寺院内を見学した後、用意されたサンダルに履き替え、庭園を回遊することが出来る。尊氏らの木像は、その後修復され、現在は寺院内(霊光殿)に安置されている。ふたたび政争の具とされることはないだろう。歴代の将軍とともに京都の町を見守っていてほしいものだ。

 

蛇塚古墳(へびづかこふん)

蛇塚古墳/奈良県明日香村にある石舞台古墳は、蘇我馬子の墓と言われている。もと方墳であったものが、盛り土を失い、石室が地上に露出したことで有名である。写真の蛇塚古墳も、もともと全長75メートルにもなる前方後円墳であったものが、土がなくなり、石室部分(約17メートル)だけが、住宅街の一角に残っている。埋葬されていた人物は、この地にあり平安京造営に深く関与したとされる秦氏の首長であったと考えられている。蛇塚の名は、昔、石室内に多くの蛇が生息していたという伝承による。蛇は不吉なもの執念深いものとして忌み嫌われるが、反面、神の使い、家の守護神として神聖視する習俗も多い。ことに養蚕農家などでは、鼠の害から蚕(かいこ)を守ってくれることから、蛇を尊ぶところがある。秦氏が蛇を尊崇していたかは定かでないが、古代、養蚕、絹織の事業に長じ、秦氏が祀ったとされる蚕の社(かいこのやしろ=木島神社:このしまじんじゃ)がこの近くにあることからして、秦一族と蛇に何らかの関わりがあったとしても不思議ではない。遥か昔、湿地であった京都盆地を開拓した秦氏ゆかりの史跡、蛇塚は、巨大な墳墓であったことを知る由もないが、奇妙な名称とともに人々の生活の中に根付いている。

 

 

大酒(おおさけ=大辟)神社

大酒(おおさけ=大辟)神社/太秦の地は、秦氏ゆかりの史跡、社寺が多い。写真の大酒(古くは大辟)神社は、広隆寺(秦氏の氏寺)の伽藍神(がらんしん=寺院守護の神)であったが、明治期の神仏分離により寺の東へ移動した。祭神の一つは、秦の始皇帝。紀元前221年、中国史上最初の統一国家、秦を築き、法治主義、万里の長城などで有名な人物である。5世紀頃、朝鮮半島から日本へ帰化し、文化、技術を伝えた秦一族とこの始皇帝に直系的な繋がりがあるのかは不明だが、姓を同じくする著名な皇帝を、一族の始祖として祀ることにより、この地での結束を強固なものとしたのであろう。10月12日に行なわれる広隆寺の牛祭りは、もと大酒神社の祭礼で、京都三大奇祭の一つとされている。夕刻、牛にまたがった摩多羅神(またらしん=特異な姿、複雑な成り立ちを持つとされる天台宗の神)が、境内をねり歩くのである。異形の面を付け、装束、行動が奇怪ら祭として古くから人々に知られている。晩年、不老不死の妙薬を求めて東西をさ迷い歩いたという秦の始皇帝の情念が、時空を超え、この牛祭りに憑依したのかもしれない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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