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楽しい38年間でした、感謝。  ・・・・・私の職歴と、その思い出。

先月末、私は38年間勤めた大学事務局を退職いたしました。

以下に7編に分けて、私の職歴(自慢話)を掲載いたします。この文面は、特に親しくしていただいた職員や幼稚園の先生・保護者様に差し上げた記念品(ハンカチ)に添えた文面のそのままです。

そして、ここに書いたことは、私の職歴のほんの一握りのことであって、38年間には、ここに書ききれないほどの仕事の内容、人との出会いがありましたが、とりあえず、仕事の上で表だって公開できそうなものだけをピックアップしています。なので、ここに書かなかった裏の歴史(事件・事故・スキャンダル)も数多く、それはまた、直接会って酒でも飲んだ時にお話ししたいと思います。

職歴その1/7

私は昭和54年3月に佛教大学文学部史学科を卒業し、その4月から佛教大学事務局の事務職員として採用されました。最初の配属は学生部厚生課でした。そこではアルバイトや下宿の紹介、奨学金交付などの業務をしておりました。場所は、当時の本館1階の東玄関を入ってすぐのところでした。当時の大学生には、新聞配達をしながら4年間を販売所で下宿しながら卒業するような苦学生が多くいました。四畳半、共同のトイレと台所、風呂は近くの公衆浴場、そんな時代でした。その後、同じ部内の学生課に異動となり、昭和60年3月までの6年間、学生部のフロアで過ごすことになります(写真は就職した頃・昭和54年、ほっそりしています)。

職歴その2/7

学生部の時代は、ちょうど課外活動に関する規程が改正された頃で、学友会を中心とした学生団体が「新規程反対!」といって大学側に撤回を要求し、大学側も規程に従わず届を出さないならボックスを封鎖するとして紛糾していた時代でした。私は西賀茂にあった男子寮「知恩寮」に寮監(補佐)として2年間住むことになり、昼間は大学に出勤し、夕方寮に帰り、夜な夜な寮生達と酒を飲み交わしたことも楽しい思い出となっています。その男子寮は現在留学生の為の宿泊施設となっています(写真は寮の屋上で弾き語り・昭和56年)。

職歴その3/7

その後、企画振興課に配属となり、留学生のお世話や同窓会報などの編集業務を1年(正確には11か月)して、翌年の3月(昭和61年)には通信教育部教材課に配属となりました。通信教育部では、部内異動も何回かありましたが、都合15年間、私の在職年数の半分近くを過ごすことになりました。その前半、教材課時代の7年間は、小学校2種免課程、社会福祉士コースなどの資格取得の需要が高まりつつある時代でした。大学と提携していた専門学校などの学生を含めると、ピーク時には、もう少しで4万人に迫る在籍者数となっていました。発送するテキストの数も恐ろしいほどの分量で、郵便局行きのハイエースにいっぱいになるまでテキストを積んだところ、その重みでスプリングが壊れたこともありました。また学習指導要領の改訂なども重なって、新たに開発するテキスト、改訂版の再版など一人で10~20冊程度を常時担当し、毎日毎日校正作業と梱包・発送という肉体労働とで、身体も頭も酷使する時代でした。けれども当時は、作業をこなすために、学生バイトに来てもらっていて、繁忙期が終われば、その学生たちとコンパや旅行をしたことは楽しい思い出となりました(写真は教材課の仲間と城崎温泉・平成2年)

職歴その4/7

通信教育部での後半の8年間は、学務課が中心で、編入学生の科目認定や教員免許状の申請、その後スクーリングや試験リポートの責任者として学生からの苦情対応や試験監督者の手配などの業務をしていました。ちょうどそのころ「大学院設置基準」が改正され、通信制による大学院が可能となった時で、上司と私に数名の学務課職員を加えプロジェクトチームが立ち上がったのです。事務室とは別の部屋にパソコンを数台置いてもらい設置認可申請の作業にかかりました。通常の業務にも関わりながらでしたので、毎日毎日深夜まで書類作成・原稿入力作業などをしました。また、文部科学省側も初めての認可となることから、事前相談や内容確認で質問に行ったり逆に呼び出しがあったりで、かなりの頻度で東京~京都の日帰り出張をしたものです。その結果、平成10年、本学は全国で最初の通信制大学院を開設するに至りました。この作業、大学だけでは終わらず、申請書類の細かい内容について自宅で頭を抱えつつ数日間作文し続けたことは私にとって思い出深いものでした。当時一緒にプロジェクトチームとして作業をした職員さんとは、いまだに「あのときは大変だったけどやりがいのある仕事だったな」と言葉を交わします。(写真は平成9年の申請室での)

職歴その5/7

それから今日に至るまでの16年間は、2~3年でいろいろな部署を経験しました。総合研究所、附属幼稚園、学術支援課、メディア教材開発・知財課、教育研究連携調査課、情報システム部、そして最後は、ふたたび附属幼稚園となりました。情報システム部を除くと、大雑把に学術研究系の部署と、2回の着任と離任をした附属幼稚園の二つの分野になります。学術系の部署では、過去に通信教材課で編集作業をしていたこともあり、論集や研究紀要などを扱う事との相性は良かったと思います。また通信制大学院の設置申請業務で、教員の研究業績・論文の評価等についての目利きなども養われていたかもしれません。これらの部署での成果として特別なものはありませんが、1つ挙げるとすれば総合研究所の時に、創設時以降の研究所の業績や出版物・研究成果などを『総合研究所要覧』としてまとめたことでしょうか。刊行後10年以上経過していますが、現在もホームページに掲載されております。また教育研究連携調査課では、著作権について勉強をして、学内で出版されている紀要や論集へ投稿した執筆者と、発行者となる佛教大学との著作物(論文等)の権利関係を、規程や執筆承諾書等で明確にしたことでしょう。以後、ホームページなどで論文を公開することに一定の指標が出来たことは、あまり目立った事ではありませんが、大学側からみれば、研究成果の帰属が明確になり良かったのではないでしょうか。(写真は総合研究所要覧・平成13年)

職歴その6/7

そして附属幼稚園は、平成16年からの3年間と、平成26年から現在に至る3年間、合わせて6年間在職することになりました。どちらの時期にも周年行事があり、30周年、40周年ともに『記念誌』を編集刊行できたことは、これまでの経験が多少は活かされたのかなと思います。2回目の異動を命じられた際に、当時の事務局長からは①幼稚園の定員を充足する、②職員室を明るく健康的にする、という2つの課題を内々に伝えられました。結果として、若手職員や副園長ら先生方の努力が功を奏し、平成29年4月からの佛教大学附属幼稚園は、久しぶりに定員充足してスタートすることになりました。一方、今、風邪やインフルエンザに罹る教職員も多い季節になっていますが、「心の健康」のほうは、ここ数年で向上し、明るい職員室となってきたかと感じています。これらは自分自身の行ないによって実現したことではありませんが、与えられた2つの課題が在職最終年に実現したこと、安どの気持ちでいっぱいです。日々の園バスの添乗、園外保育の付き添いはもとより、運動会や生活発表会等さまざまな園行事での裏方の仕事、過酷な職場でしたが、園庭を走り回る園児たちの姿に癒され、その笑顔に救われてきました。楽しい職場でした。(写真は点呼ボードを持って園バス添乗する朝の様子・平成27年)

職歴その7/7

以上、自身の職歴を自慢げに書き綴ってきましたが、38年前に佛教大学に奉職し、事務職員として過ごしてきた、それと同時期、私のもう一つの歩みの中に、課外活動の団体顧問として関わってきたソフトボール愛好会の存在があります。カメラ好き・写真好きの私のパソコンのハードディスクには、リーグ戦の選手の姿や、合宿での練習風景、コンパで楽しむ学生の様子が、おそらく何万枚の単位で保存されています。初代から現役の学生(37期生)までの期間は、ほぼ私の在職年数と重なります。3年前の合宿の時のことです、練習の合間、選手の水分補給のために休憩時に飲むお茶を「太田さんもどうぞ」と汲んでくれた紙コップには、私専用のコップとして使ってくださいと言わんばかりのイラストが描かれていました(この写真)。その気遣いに感動しました。

 

良き仲間に恵まれ、38年間を過ごすことが出来て本当に幸せでした。一緒に仕事をした皆様、私と関わってくれた学生、教職員の方々、園児と保護者の皆様、ありがとうございした。

                                                                         平成29年3月   太田貴久男 @広沢

 

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